ハリ−・ニルソンという人を認めたというか、身近な存在だと思ったのは 74年に発表された『Pussy Cats』を聞いてからのことだ。 ジョン・レノンのプロデューサーに驚くよりも、彼の声自体に驚かされた。 と言うのも、それまで彼は歌に自信のある人にありがちな、 ハスに構えているような感じで声も線が細くて、ナヨナヨしていて、 はっきり言って私のタイプではないと思っていた。 それがどうだ、彼のトレードマークであった美しい声は影もカタチもなくなって、 あるのは、力を振り絞って吐出すようなガラガラ声だった。 そんな中、私は「Don't Forget Me」というバラードをやろうと心に決め、 雄サンと一緒に楽譜も作り、練習を重ねていった。 歌はすぐ覚えたし歌えるようになったが、問題は演奏の方だった。 というのも、演奏といってもリズム隊にあるのはアコギが2本にリードギターがあるだけ。 あとは何の役にも立ちそうもないブルースハープだけでは 熱意がいくらあっても、どうにでもなるようなものでもない。 潔く諦めるしかないと思うのに、時間はそんなに掛からなかった。 ハリ−・ニルソン[Harry Nilsson] ネットで調べてみると詳しいのが2つ出てきた。ひとつは「3オクターブを超える豊かな声域とユニークな作曲センスを駆使してロック史上に多くの名曲を残した個性派のシンガー・ソングライター、ニルソン(本名はハリー・エドワード・クリストファー・ネルソン)は1941年6月にニューヨークのブルックリンに生まれた。60年代の半ばまでは銀行員としての勤務の傍ら作曲活動を続けていたニルソンは自身の作品がフィル・スペクターのプロデュースによるロネッツやモダン・フォーク・カルテットに取り上げられたことをきっかけに67年にRCAと契約し、デビュー・アルバム「パンデモニアム・シャドー・ショー」をリリースする。 その後、セカンド・アルバム「空中バレー」からのシングル・ナンバー「うわさの男」(ダスティン・ホフマンが主演した米国映画「真夜中のカウボーイ」の主題歌としても知られる)のヒットや、スリー・ドッグ・ナイトがカバーした「ワン」の全米チャート入りなどで人気を得つつあったニルソンはビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーが「お気に入りのアメリカ人アーティスト」として当時のニルソンの名を挙げたことで更にその評価を高めていく。そして、ニルソンの最大のヒット曲が「ニルソン・シュミルソン」(71年)からの「Without You」によってもたらされる。アップル・レーベル所属の英国のロック・グループ、バッドフィンガーのナンバーをカバーした「Without You」はリリース直後に全米ヒット・チャートの第1位に輝き、ニルソンの代名詞的な作品として知られる大ヒット・ナンバーとなった。 ニルソンはソングライターとして、またボーカリストとしての稀有な才能によって数々の印象的な作品を残しました。しかし、彼のスタイルはあまりにも独自性が高く、模倣者も現れなかった為か、はたまたコンサート活動を一切行わないというスタンスの為か、ウエストコースト・ロックのどのムーヴメントにも属なさい孤高の人という印象があります。書籍などではシンガー・ソングライターに分類されることが多いニルソンですが、自己告白的な歌詞やシンプルなサウンドというシンガー・ソングライターの一般的なイメージと複雑なアレンジと技巧的なヴォーカルを特徴とする彼のサウンドは全く異なるものです。 彼はまた、名前についてのスタンスがとてもユニークです。本名はハリー・ネルソンですが、芸名では名字をスウェーデン風のニルソンに変えています。 これは祖父がスウェーデンから渡米したことを意識したものですが、自らのアイデンティティーをアメリカの外に置く姿勢のひとつの表れなのかも知れません。更に、彼のアルバム・ジャケットにはアーティスト名は“ハリー・ニルソン”ではなく、単に“ニルソン”と記されています。それでは彼の芸名はファースト・ネームのない“ニルソン”なのかというと必ずしもそうではないようなのです。サード・アルバム『Harry』のジャケットには単に“ハリー”と書いてあり“ニルソン”という表記は見当たりません(裏には書いてありますが)。つまり、彼は自分の芸名をはっきりとさせていないのです。 このような態度には幼少の頃に体験した父親の死や、それに伴うニューヨークからロサンゼルスへの転居を通じて彼の心に育まれていった自分のアイデンティティーに対する不安感を反映しているのでしょう」というもの。 更に「ニルソンが大学卒業後に、銀行に勤めながら音楽活動をしていたことはよく知られています。とは言えニルソンはフルタイムの銀行員というわけではなく、夜間だけ銀行に勤めて、昼間はCMのジングル作りに携わりながら自作曲を売り歩く生活をしていました。そんな彼の努力が実ってフィル・スペクターが彼の作品を3曲買ってくれました。スペクターは既に名の知れた作曲家の曲ばかりを使っていたことを考えれば、これは結構スゴイことなのではないでしょうか。その3曲の中でもっともヒット性があり期待されていたのが「This Could Be The Night」という曲です。この曲はスペクターが新たに契約したモダン・フォーク・カルテットのシングル用に65年に録音されましたが、スペクターが「もし1位にならなかったらどうしよう」という強迫観念に駆られた結果、発売を中止してしまいます。この事件によってニルソンが一流作曲家の仲間入りをする時期が少々遅れてしまいました。しかし、スペクターと共にフィレス・レコードを設立した人物であり、当時はモンキーズのスタッフに加わっていたレスター・シルが再びニルソンにチャンスを与え、彼の「Cuddly Toy」をモンキーズに録音させます。これによってニルソンはようやく脚光を浴びることになりました。 作曲家を歌手としてデビューさせるということがまだ一般的でなかったにもかかわらず、ニルソンは67年にはRCAとのレコーディング契約を得て、デビュー・アルバム『Pandemonium Shadow Show』を発表します。この作品でニルソンは作曲家としてだけでなく、ヴォーカリストとして、更にサウンド・クリエイターとしても豊かな才能を持っていることを示しました。彼は3.5オクターヴもの音域の幅を持つ有能なボーカリストであり、かつ、ひとつひとつの音節の発音にまで気を使う完璧主義者だったのです。彼の作り出すサウンドは極めてユニークなものでした。彼の祖父がサーカス団員だった為、ニルソンはサーカスに思い入れがあり、サーカスの音楽から大きな影響を受けています。当時、彼と同じようにサーカスの音楽やヴォードヴィルに傾倒していたのがビートルズでした。ビートルズの面々はニルソンをいたく気に入り、インタビューでそう公言したことから、彼はデビュー作が大して売れなかったにもかかわらず、世間の注目を浴びることになりました。それ以来、ビートルズの面々やそのスタッフ達とニルソンとは親交を結ぶことになります。 68年のセカンド・アルバム『Aerial Ballet』に収録されていたフレッド・ニールのカバー「Everybody's Talking」は翌年に映画『真夜中のカウボーイ』の主題歌に採用され、彼にとって初のシングル・ヒットとなりました。それに続くサード・アルバム『Harry』によってニルソンの音楽は完成したと言っていいでしょう。この頃、スリー・ドッグ・ナイトが彼の曲「One」をカバーしてヒットさせています。70年には自分はボーカリストに徹し、ランディ・ニューマンの曲ばかりを本人のピアノをバックにカバーした『Nilsson Sings Newman』を発表し、バーバンク・サウンドへの親近感を示します。71年にはバッドフィンガーのカバー「Without You」を大ヒットさせ、商業的成功のピークに達します。名作曲家であるはずのニルソンがシングル・ヒットさせたのはなぜかカバー曲ばかりというのは何とも不思議な気がします。 その後のニルソンは離婚や主演映画の不評などを経て精神的に不安定になり、徐々に調子を落とすことになります。74年にはジョン・レノンをプロデューサーに迎えて『Pussy Cats』を制作しますが、そのレコーディング最中に深酒のせいか、彼はそのトレードマークであった美しい声を失ってしまいます。その後も何作かのアルバムを残していますが、ニルソンが再び音楽的な成果を残すことはありませんでした。考えてみれば、ニルソンがその才能を十分に発揮した作品を生み出していたのは、その活動期間の中のほんの一時期に過ぎませんでした。しかし、その数年間に彼が残した数枚のアルバムはポップス史の中で代替物のない重要な作品としていつまでも記憶され続けることでしょう。ハリー・ニルソンは1994年1月15日、糖尿病による心臓麻痺の為に死去しました」というもの。改めて彼に対するファンの篤い思いが心に滲みた。 「I'll Be Home」 ランディー・ニューマンの曲は ランディー本人の次は彼かもしれない。 「Dayton, Ohio 1903」 潰れた声も綺麗な声も、 彼の歌は心にいつまでも残る曲だ。 「Don't Forget Me」 何度挑戦しても上手くいかなかった。 だからライブでやったことは一度もない。 「Save the Last Dance for Me」 歌謡曲風のダサイアレンジしかなかったこの曲を 彼は見事に甦らしてくれた。 「Many Rivers to Cross」 初期の頃の彼を知っている人にとってはびっくりしたかもしれないが、 私にはちょうどよかった。 「Everybody's Talkin'」 「One」 スリー・ドッグ・ナイトの歌でビックヒットしたこの曲も オリジナルは何と彼。 「Without You」 バッドフィンガーのこの曲を彼は見事に甦えらした。 その後に歌った色気ババーよりは何ぼかいい。 「As Time Goes By」 あまりにもはまり過ぎているので、 「ハリ−、コレではいかんぞ」と何故か思ってしまったんだな。 「Jump into the Fire」 少しづつ壊れかけているみたい。何ともコメントのしづらい曲なのだ。 ♪ 「フィッシャーマンキング」という訳の判らない映画を観たあと、 突然、雄サンから電話が掛かってきた。 「ラストの歌ってニルソンじゃないのか?」てね。 早速CD屋で場違いの映画音楽の中からようやく見つけてきた。 間違いなく二ルソンの「How about you」という歌だった。 歌詞の一字一句からコードに至るまで誰にも手助けされずに独力で見つけてきた。 3ヶ月後、星ヶ丘にあるSlow Bluesというライブハウスでお披露目をした。 万難を排して日の目を見たというのに、 結果は不調に終わってしまったんだな、これが。 この続きは次回へ (万一、ここに用意したサンプル曲をあなたのPCで聞けない場合は あなたのPCに合ったWindows Media Playerをインスツールすると聞けます)
by tomhana0903
| 2006-08-07 06:58
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人生の御負け
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