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心の曼陀羅:32

坂本龍馬の暗殺[一]

慶応3年11月15日(1867年12月10日)の午後2時頃、
土佐藩の脱藩浪人であった中岡慎太郎は銀閣寺の近く白川村にあった
陸援隊の屯所を出て坂本龍馬が下宿している近江屋を訪ねようとしていた。
その前に彼は高瀬川沿いにある京都土佐藩邸と
これから訪れる近江屋との中間辺りにあった土佐藩小目付役の
谷干城(陸軍中将・農商務大臣)の下宿を訪ねたが谷本人は留守とのことだった。
しかたなく近くの書店菊屋に立ち寄ったところ、
この本屋の小僧・峯吉を見かけたので、
「これを薩摩藩に届けてきてくれ、返事は近江屋へ」と頼んでおいて、
慎太郎は近江屋へと向かった。
峯吉というのは龍馬や慎太郎から可愛がられ、
使い走りのようなことをしていた少年だった。
峯吉の証言によると、慎太郎とのやり取りがあった時刻は午後6時頃だという。
だから、慎太郎が近江屋に着いた時は早くても6時を少し回っていたはずだ。
この醤油等の商いをしていた近江屋は土佐藩邸と道を挟んだ向側の
河原町通蛸薬師というところにあって、土佐藩邸の用達もしていたという。



龍馬はその年の6月頃まで河原町三条下ルを更に
東へ入ったところにあった木材商の酢屋嘉兵衛方に下宿していたが、
幕府役人から目を付けられ危険だということで、
事件の起きる3日前に近江屋へ下宿を替えたばかりであった。
無頓着な彼のこと、幕府の役人が彼の命を狙っていることにも余り気に掛けず、
下男藤吉ひとりを同宿させているだけだった。
むしろ近江屋の方で心配して、裏庭にある土蔵に密室をこしらえて龍馬の下宿とし、
万一の場合にはハシゴ伝いに裏手の誓願寺へ逃れる用意もしてあったという。
ところが事件当日、龍馬は風邪ぎみで土蔵の中が寒くて、その上不便だったため、
その日に限って、近江屋の母屋の2階に移っていたのである。
龍馬はその2階に慎太郎を招き入れた。
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また龍馬は事件当日の午後3時頃、近くの酒屋・大和屋に下宿していた
土佐藩の大目付である福岡孝弟(文部大臣)を訪ねたが、
不在だということで再度、午後5時頃にも訪問したが、福岡はまだ帰宅していなかった。
その時、福岡の従者である和田某に「先刻、坂本先生はお宅におられぬかと
訪ねてきた者がおります。ご用心ください」と忠告されている。



この日、慎太郎がワザワザ龍馬を訪ねたのには理由があった。
幕府の京都町奉行所に捕らえられていた、土佐勤王党のかつての同士で
土佐藩脱藩浪士・宮川助五郎(明治3年27歳で死亡)の処置のことであった。
宮川は新撰組隊士と争って捕らえられていたが、
幕府側の会津藩が土佐藩と仲良くするため宮川を返そうとしてきたのだ。
それを聞き付けた福岡がその処置を慎太郎に任せ、
慎太郎はその引き取りについて話し合うために龍馬を訪ねたのであった。
そして、龍馬と慎太郎が近江屋の2階で話している時、
大阪より帰京した海援隊宮地彦三郎(学校教師)と
長岡謙吉(龍馬の死後海援隊隊長)が訪れ、龍馬から「上がれや」と声を掛けられたが、
密談中とみて階下より挨拶だけして立ち去っている。
その後、淡海塊堂(板倉筑前介)が龍馬に贈る自筆の軸を携え訪問したが、
午後8時頃には退室している。
この少し後に慎太郎に頼まれて薩摩藩に行っていた峯吉が返事を持って戻ってきた。
この時、2階には龍馬と慎太郎の他に
土佐藩士岡本健三郎(自由民権家)も同席していた。
そして、峯吉が持ってきた返書を慎太郎が読み終えた午後8時半頃、
龍馬は話し疲れて腹でも減ったのか「軍鶏を買って来てくれ」と峯吉に命じている。
この時、外出する峰吉少年と共に岡本も同行している。
何故なら、岡本の下宿は河原町四条下ルの薬屋亀屋であり、
峯吉の行こうとしていた鳥新もその近くにあったからだ。
刺客が訪れたのは峯吉達が出掛けて間もなくの頃と思われる。



峯吉が潰してもらった軍鶏を抱えて、近江屋へ引き返したのが午後9時頃。
すると、近江屋の土間にある引戸が無造作に開いていた。
中に入ると、土佐藩の元足軽島田庄作(土佐下横目)という男が身構えていて、
「坂本がやられた、賊はまだ2階にいる。降りてくればここで斬るつもりだ」
と峯吉に言ったが、これには理由があった。
2階の騒動に驚いた近江屋の主人新助が裏口から土佐藩邸に駆け込んで、
龍馬等が斬られたということを伝えていたからだ。
不審に思いつつ峯吉が血だらけの階段を上がっていくと、
2階に上がった直ぐのところに下男藤吉が倒れており、
奥の間では龍馬が既にこと切れていた。
そして、物干場から隣家の屋根へ移ったところで気を失った慎太郎を発見した。
峯吉は島田や近江屋の家人の手を借りて、慎太郎を8帖の間まで担ぎ込んだ。
土佐藩邸からは急を聞いた谷干城、毛利恭助(静岡県参事)、
曾和慎八郎(薩摩藩士)らが駆け付けて来た。
陸援隊からは少し遅れて田中光顕(陸軍少将、宮内大臣)が途中薩摩藩邸に寄って
吉井友美(宮内省次官)を伴ってやって来た。
医師も土佐藩邸からやって来たが、龍馬は既に絶命していたという。
慎太郎は一命を取り留め、傷の手当を受けていたが結局回復せず
11月17日の夕暮れ、遂にこの世を去った(下男藤吉は16日に死去)。
龍馬33歳、慎太郎29歳、そして下男藤吉は25歳であった。
彼等は維新の変革を見ることなく、その短い生涯を閉じたのである。
11月18日、海援隊、陸援隊の隊員、土佐藩、薩摩藩、その他諸藩士が会葬する中を、
龍馬と慎太郎、そして2人と一緒に犠牲になった下男藤吉の柩は
近江屋から東山の高台寺裏の墓地に送られていったのである。



龍馬は2階の8帖間で火鉢を抱えるようにして慎太郎と話し込んでいた。
そして峯吉の帰りを待っていると、十津川の郷士と名乗る3人の男が現われ、
彼等は龍馬に面会を求めて下男藤吉に名刺を渡した。
藤吉はその名刺を龍馬に手渡して2階から下りようとしたところを
階段を上りかけていた来訪者のひとりから突然斬り付けられた。
その物音を聞いた龍馬はそこに暗殺者が来ているとも気付かずに
「ほえたな」と怒鳴り付けた。
ちなみに、ほえたなは土佐の方言で騒ぐなという意味である。
藤吉を倒した暗殺者達は直ぐさま龍馬達のいる8帖間に飛び込み、
ひとりは慎太郎の後頭部に一撃を浴びせ、
ほぼ同時にもうひとりの暗殺者が龍馬の額を横に払った。
第一撃で龍馬等の命運は決まったともいえる。
慎太郎は太刀が手許になく脇差だけで反撃していたが、
抵抗空しく11カ所もの傷を受け、身動きすらままならなくなっていた。
一方の龍馬は第一撃を受けた後、右の肩先から左の背骨にかけて二の太刀を受け、
三の太刀を防ごうと太刀を鞘ごと振り上げて受けようとしたが、
暗殺者は鞘の上から斬り付け、龍馬の額を真っ向から切り裂いた。
この第三撃が致命傷となった。
龍馬は「石川(慎太郎の変名)刀はないか。刀はないか」と叫びながら倒れ込んだ。
暗殺者達は「もうよい。もうよい」と言いながら立ち去っていった。
彼等が立ち去ってから程なくして、龍馬は意識を取り戻し
血みどろの身体から声を振り絞って「石川、手は利くか」と、
そして「俺は脳をやられた。もういかん」と言って絶命した。

 ●●

ちなみに、暗殺現場の経緯は命を取り留めた慎太郎の談話による。
この話の続きは次回に譲ることとしよう。ではまた!
by tomhana0903 | 2006-09-19 06:48


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