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心の曼陀羅:37

坂本龍馬の暗殺[六]

[坂本龍馬年表]

龍馬は土佐国高知本丁(城下)に父土佐藩郷士坂本八平、母幸の次男として生まれた。坂本家は本家筋にあたる才谷屋から新しく興された郷士の分家であった。坂本家は才谷屋6代目八郎兵衛直益が幡多郡の郷士が募集された時、これに応じて郷士資格を取得、そしてその郷士株を長男・直海に譲った。坂本家は初代直海から2代目八蔵直澄となり、3代目が龍馬の父・八平だった。八平は白札郷士の山本覚右衛門の次男に生まれ、坂本家には養子として入っていた。1848年龍馬14歳の時、高知城下築屋敷に住む小栗流剣術指南日根野弁治に入門。1853年3月目録を与えられ同年江戸に出て京橋町の北辰一刀流千葉貞吉に師事。1854年6月帰国、8月再び江戸に出て修行を続け1858年正月北辰一刀流免許を受けた。剣士としてその名を知られていたが在郷当時には絵師河田小竜から中浜万次郎の漂流談と海洋発展論を聞き、海外の知識の面で影響を受けた。1861年には交流のあった尊攘派武市瑞山による土佐勤王党結成に参画した。

1862年の勤王党による吉田東洋暗殺には加わらず直前の3月24日に脱藩。諸国を放浪したのち江戸に出て勝海舟を訪ね、海舟の新世界観に感激して攘夷論を棄て門下生として航海術を学んだ。勝の他には松平春嶽、大久保一翁、横井小楠らの影響を受けた。この脱藩は海舟と山内容堂との交渉免除され、1863年4月海舟が神戸海軍操練所の設立許可と神戸に海軍塾を開くことの許可とを得ると神戸を拠点として尊攘派朝廷と神戸海軍を結びつける構想を画策したが同年8月18日の政変で挫折した。神戸の外に生きる道を求めて北海道開発計画など様々な選択肢を検討した。同年幕府の保守勢力が海舟の進歩性や積極性を喜ばず、海舟を江戸に召還し軍艦奉行を罷免するのと前後して薩摩藩の庇護下に入る方針を固め、1865年土佐藩の仲間を中軸に長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成した。船を運用しての商業活動と討幕のために薩摩と長州を結びつける政治活動とを重ね合わせ、1866年1月京都で薩長同盟を結ばせた。同盟成立直後、伏見寺田屋で幕吏に襲われたが危地を脱した。

木戸の助言もあって1867年には土佐藩との関係を修復して4月海援隊を創設。6月には長崎からの船中で後藤象二郎と共に大政奉還や公議政治など八カ条の構想を練った(「船中八策」)。そして容堂を動かして土佐藩の大政奉還建白を引出し、それが10月の徳川慶喜による大政奉還として実現した。奉還後の政治体制について画策中の京都で何者かに襲われ、中岡慎太郎と共に11月15日下宿近江屋で暗殺された。享年33歳であった。
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[中岡慎太郎年表]

慎太郎は1838年4月、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村)の大庄屋中岡家の長男として生まれた。17歳からは藩校田野学館(現在の県立中芸高等学校)へ通い始めた。1855年8月、武市瑞山が藩命で藩校に出張して剣術を教えていた。慎太郎は瑞山の武術と人格に敬服、瑞山が高知に戻ると慎太郎も高知に出て新町にあった武市瑞山道場に入門した。1856年、瑞山が剣術修行の為に江戸に出発。慎太郎もその跡を追って江戸に行き、瑞山と同じく桃井春蔵の道場に入門した。しかし1858年、父・小伝次が病気で倒れたとの知らせがあり、北川村に戻り大庄屋の見習いとして仕事を引き継いだ。慎太郎は村人の生活がよりよくなるためにはどうしたらいいのかということを常に考えて仕事をしたという。北川村は山ばかりで平地が少なく米をたくさん作るのが難しい土地だった。そこで、慎太郎は毎年一定の量の米が取れるように、田んぼを規則正しい長方形に整理した。また村人に家を建てるときの材木用にと杉の木を、魚が美味しく食べられしかも高く売れることから柚子の木を植えることを推奨した。

1861年、武市瑞山が尊皇攘夷運動を開始すべく新しい政治団体・土佐勤王党を結成した。土佐勤王党には龍馬や慎太郎を始め約200名が加盟した。武市瑞山は郷士や下級武士達が政治に関わると国の秩序が乱れると勤王党の意見に反対をした執政役の吉田東洋を暗殺し、藩の方針を尊皇攘夷に変えさせることに成功。この頃、江戸に謹慎中の山内容堂の命を狙うものがいるという噂が広がり、慎太郎は警備のための五十人組と呼ばれる警備隊に参加した。1863年8月18日の政変により長州藩と三条実美ら尊皇攘夷派の公家7人が京都から追放された。これを機に全国各地で尊皇攘夷派を弾圧する動きが始まり、土佐藩では吉田東洋を暗殺した武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の主だった人々が入牢。身の危険を感じた慎太郎は脱藩を決意する。1863年9月、長州にいた慎太郎は山口にいた三条実美ら7人の公家と面会し、土佐藩の現状を伝えた。慎太郎は三条の手足となって各地の情報を集め、三条の遺志を伝えることこそ自分の仕事だと定めた。また京に入り高杉晋作・久坂玄瑞らと活動、土佐藩邸にも出入りして土佐藩の事情・他藩の内情に精通するようになった。

慎太郎は1864年の禁門の変で長州軍として参戦した。また禁門の変で真木和泉、久坂玄瑞を亡くした忠勇隊(長州に集まった諸藩浪士の軍隊)を引継ぎ隊長として活躍した。8月18日の変と禁門の変により、増々仲が悪くなった薩摩・長州に対し勝海舟は「徳川幕府は政治を行う力はなく、これからは薩摩や長州など有力な大名達が協力し合う政治体制にしていくべきである」と説き、薩摩の西郷隆盛は衝撃を受ける。その時から慎太郎は薩摩と長州の代表者達の間を何度も訪れ、薩長連合について粘り強く交渉を進めていく。慎太郎は西郷を長州藩の代表者に会わせて薩長同盟の機会を設けたが、あいにく西郷が下関に寄らず京へ急いだため会議が中止となった。その頃、下関に龍馬がおり、この薩長同盟に興味を示していた。その頃の龍馬は亀山社中という今の商社にあたる会社を作っており、薩摩の武器、長州の米といった商品の輸送や買い付けを行うことで両藩を結びつける可能性を模索していた。1865年、慎太郎と龍馬の東奔西走の甲斐もあって1866年1月21日、薩長同盟が成立した。

龍馬に動かされた後藤象二郎は長崎で龍馬が率いる海援隊、慎太郎が率いる陸援隊を作ることを決めた。陸援隊は1867年に京都白川の土佐藩邸を本部とする土佐藩の陸軍のような役割を担い、薩長両藩と土佐藩の連合軍で徳川幕府と戦争をして新しい国造りをするための陸軍として誕生した。このように新しい国造りに尽力した慎太郎だったが1867年11月15日悲劇に襲われる。十津川郷士を名乗る者が龍馬を訪れ、龍馬・慎太郎はこの刺客に暗殺された。龍馬はこの時、ほぼ即死状態、慎太郎はその2日後死んだ。重傷を負った慎太郎は駆けつけた陸援隊士田中顕助に「刀を持たなかったのが不覚のもと。諸君も今後は注意せよ。こちらからも早くやらぬと、また反対にこの通りにやられるぞ!」と伝えたという。また慎太郎は死期が近づいたのを察したのか同志に後の事を頼み「岩倉卿(岩倉具視)に伝えてください。王政復古のことは貴下の力による!」と訴えたという。慎太郎の絶命を聞いた岩倉具視は「自分は片腕をもがれた」と声を上げて泣いたという。

慎太郎は土佐にいる仲間達に何のための攘夷か、何のための倒幕か、新しい時代を切り開いていくために何が必要かなどを書き記した「時勢論」を残している。この時勢論には慎太郎が高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、西郷隆盛など様々な志士と交流し、長州、薩摩、京都など各地を巡り、多くを見て、感じ、経験しながら出した答えが詳しく書かれている。慎太郎は「国民が安心して暮らせる世の中にするためにはどうしたらいいのか?」という問題に対する答えを必死に探していた。そして、その答えが「欧米諸国と対等に付き合う事ができる独立国家を創ること。そのためには今の政府である徳川幕府を潰し、朝廷を中心とした政治体制を造ること」であり、これが慎太郎の目標となった。この目標を実現するために、薩長連合、三条実美と岩倉具視との和解、土佐藩を武力倒幕勢力に組み込む事など画策し実現していった。慎太郎は「新しい国造りを実行していくのは人間の力である。人間を大事にし、それぞれの能力を伸ばせるような時代にしなければならない!」と強く主張した。また「人間がしっかりとした目標をもって、1人1人の長所をフルに活用し、その時々の状況に応じながら、たゆまぬ努力を行っていくことが必要である。それがあって始めて政治体制が確立し、軍備の強化、諸外国との信頼関係ができるようになる」と主張している。

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一息付いたところで、この物語のクライマックスに突入していこうか。
この話の続きは次回に譲ることとしよう。ではまた!
by tomhana0903 | 2006-09-29 06:44


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