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私の読書感想:24

参勤交代では藩主が死ぬこともある
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《道中異変:4》

1749年4月29日に国許を出発した松平主殿頭守(島原藩6万5900石)は
持病の痔に悩まされ、また足には浮腫が少し出ていた。治療して快方に向かっていたが、
まだ治り切らないうちに参勤の時期になり、やむを得ず国を出たのである。
海陸旅行中にも腫れが増し、船中では随分苦しんでいたので陸路を取ることにし、
1日4〜5里ずつ進むといった有り様で、周防の下松まで来た。

しかし、ここで進むことができなくなり、江戸に報告し、下松での養生を願い出た。
主殿頭が宿舎にしたのは下松湊の町方三笠屋金左衛門の家であった。
下松の領主である徳山藩主毛利和泉守は在府中であったが
家老から飛脚が指し越され、まさに丁寧な応対であった。

5月16日、島原藩江戸藩邸では
留守居役田中伴右衛門が届書を御用番本多正珍のもとに持参した。
公用人小坂仁右衛門が「先例を問い合わせたか」と尋ねるので重ねて調査した。
翌日、小坂に先例を示し、御用番に届書を取次いでもらった。
御用番からは承知したの旨の回答があった。同日、留守居役の田中は
幕府先手弓頭の小笠原縫殿助(780石)を訪問し、御医師願いを提出した。
主君のために江戸から名医の派遣を申請したのである。
医師は伴正山といって、以前から主殿頭の掛かり付けの医師であった。

18日には主殿頭が奏者番を勤めていたことから、
もし死去の場合、「御役願」が必要かどうかを問い合わせた。
これには、その必要なし、とのことであった。
さてその夜、下松から主殿頭が危篤になったことから跡式願書が飛脚で送られてきた。
田中がその旨を小笠原に報告すると、
先手鉄砲頭の久世忠右衛門(100石200俵)にも知らせるよう指示された。
また、小笠原の指示でその夜の内に堀遠江守(椎谷藩1万石)ら縁戚へ知らせた。

翌19日、小笠原、久世と堀ら縁戚を招き、
料理を出した上で跡式願書を開封し、縁戚の承諾を得た。
その後、小笠原らが同道して、御用番の本多を訪問し、跡式願書を提出した。
跡目候補は4年前に既に嫡子として届け出が済んでいる長男の吉十郎である。
実は下松から跡式願書が来た日、主殿頭死去を知らせる飛脚も来ていた。
死去は5月10日のことであった。
そこで、その届書を跡式願書を提出した後に本多に提出、これも受理された。

同21日、御用番に主殿頭の遺骸を三河国額田郡深溝に送りたいという伺書が提出された。
深溝の本光寺は島原藩松平家代々の墓所であった。
転封の多かった中小の大名は墓所を領地に作らず、江戸に菩提寺を構えることも多かった。
しかし、徳川家の古い親類であった深溝松平家は三河の先祖の地に代々の墓があった。
ちなみに、吉十郎はまだ若く、長崎防衛の要地である島原藩主としては
荷が重いということであったか、下野国宇都宮へ転封になった。

歴史書籍10:幕末遠国奉行の日記
◆小松重男著 ◆1989年発行 ◆中公新書 ◆定価560円

私の読書感想:24_c0034786_705568.jpgカバーには「度重なる建て直しにもかかわらず、徳川政権の屋台骨は日増しにもろさを露呈し、しかも近海には異国船出没の噂が飛び交い、日本全土が不穏な空気に包まれていた。その中にあって、小身旗本ながら才能と見識を見込まれた川村修就は新潟をはじめ堺、大阪、長崎と要衝の奉行を歴任する。将軍直属の御庭番として探索活動の中で培われたであろう緻密な行動力で破格の昇進を果たし、多難な時代を生きた幕臣の生涯と幕末の実相を描く」とあった。

京都、大阪、伏見、駿府などの町奉行と奈良、山田、日光、佐渡などの要地や長崎、浦賀、神奈川、箱館、堺、新潟、下田、兵庫などの要港を預かって支配する奉行を総称して「遠国奉行」といった。遠国奉行の直属の上司は老中である。ということは、必ず大名が就任することに決まっていた老中、若年寄、寺社奉行、側用人、奏者番などよりは遠国奉行の地位が低いのは当然で、また勘定奉行や江戸町奉行よりは席次は低かったが、能力や手腕を存分に発揮できる絶好の地位であると、幕臣達がもっとも憧憬する役職であった。

その重要直轄地の行政権を執行する市長であり、治安を司る警察署長であり、民事・刑事にの事件を裁く裁判官であり、税金を徴収する税務署長であると、例を挙げ出したらキリがないほど多くの権力を一手に掌握する役職だから、本当に仕事のやる気のある優秀な旗本達はみんな遠国奉行に任命されることを望んだのである。まして川村修就は先例や慣行などのない新規の直轄地新潟へ初代奉行として赴任したから、一層裏ましがられたという。
by tomhana0903 | 2006-06-27 07:03


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