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日々の雑記帳:13

フェントン・ロビンソン

断わることもないとは思うが、彼は悪役プロレスラーなんかではない。
彼はブルースマン、それも玄人受けするようないぶし銀のブルースマン。
そして彼は「ブルースとは何ぞや」を追い求める修験者のような人間だった。
安アパートにひとりで住んで、あるのは愛用のギターとレコードを聴くセットだけで、
他にはベットをはじめとして何にも置いてなかったという。
そんな彼、67年にブルースの名曲SOMEBODY LONE ME A DIMEを出した。
この曲、後にボズ・スキャッグスによって取り上げられてヒットしたが、
何故か曲のクレジットがフェントンではなくボズになっていて、
作者である彼にはその曲の印税が1銭も入ってこなかったという。
悪いのはボズにこの曲を紹介したエルビン・ビショップという話もあるが、
真偽の程は判らない。
《06.10.2》

名古屋の風1

私は名古屋市南区出身で、中3の時まで名古屋で育った。
一時期、東京や横浜にいたが染まることなく名古屋に戻って20年以上経っている。
こうイッチャア何だが、自分としては名古屋で生まれてずっと名古屋を離れずいた、
自称名古屋人よりもずっと名古屋人らしいと自負している。
何故なら、名古屋の外から名古屋を見てきた者にしか判らない名古屋の風を
ずっと感じていたし、今でもその風は私の心の中を吹き抜けている。
あれは高1の時、初めて食べた関西風のお好み焼きの作り方には閉口した。
めったやたらにかき混ぜてしまう関西風には情緒というものがないと感じた。
(味的には合格で、コテコテのソースにマスタードが効いて大人の味だと思った)
また、最近は広島風お好み焼きというものが名古屋を席巻しているそうだ。
しかし、あんなモノは名古屋人の私に言わせるのなら邪道のなにものでもない。
大人の食べ物、お好み焼きにお子様ランチ的な焼そばと卵焼きをトッピングして、
最後に子供が喜びそうな甘いソースでアメリカナイズするなんて言語道断である。
広島人は子供の頃からそういうモノに慣らされてしまっているからいいとしても、
名古屋人がそういうモノにシッポを巻くなんてところを私は見たくもない。
名古屋人としてのアイデンティティはどこへ行ったんだ。
《06.10.3》

名古屋の風2

前回は一方的な私の泣き言だけで終わってしまったが、
ちょっとしてから、口を酸っぱくして名古屋の風を伝えたかった割に、
名古屋風お好み焼きのことに言及していないことにフト気が付いた。
これでは片手落ちだと思い、説明をすることにする。
まず焼くシチュエーションと焼く道具は他の関西・広島とも代わり映えがない。
まず、鉄板の上に小麦粉を水だけで溶いた溶液をクレープの要領で薄く延ばす。
この溶液「こんなに薄くていいのか」と思うほどシャビシャビだが御心配なく。
その上にキャベツのみじん切りを「ちょっと多すぎるんでない」というほど敷き詰める。
後は何を乗せてもいいのだが、乾燥桜海老と天カスと紅生姜だけは忘れてはいけない。
それらをキャベツの上にあくまで美的感覚を駆使して綺麗に盛り付ける。
最後に卵を壊さないよう注意しながらキャベツの真上で割って乗せてやる。
そうしたら、先程の溶液をその上から量を加減しながら回しかけてやる。
これが済んだらすかさず、一番下のクレープ状の生地と鉄板の間にコテを入れ
剥がし易くしておいてから2つのコテでおもむろに全体をひっくり返す。
この時が一番の妙技の見せ所でもある。コテを使って押さえ付けてやると、
キャベツがしんなりしてきて、お好みらしくなってくる。
最後にソースを塗って、飾り付けの青海苔を掛けて完成するのだが、
名古屋風お好み焼きの特長はこのソースにあると言っても過言ではない。
それはメインの具材によってソース味なのか醤油味なのか主体となる味をまず決め、
それプラス、ソース味に醤油味の和風テ−ストが混ざった感じなのか、
それとも醤油味に濃厚なソース味が微かに潜んでいる感じなのか、
その微妙な感じが作り手の感性であり、名古屋人のこだわりでもある。
《06.10.4》

友人の死

「月曜日の朝、中学の時の同級生だった山本が死んだ」
というメールを同級生から貰った。
彼とは同じクラスになったことも、同じクラブという訳ではなかったが、
ウマが合うというのか40歳を過ぎてから月1回の飲み会で合うようになって、
中国から持ち帰った酒を飲みながら彼の中国での仕事の話を聞いたりして、
お互い楽しいヒトトキを過ごさせて貰っていた。
私が脳梗塞になってからはその飲み会に行くこともなくなって、
それ以来、彼とは会うこともなくなっていた。
最近、彼が入院していることを同級生から聞かされていたが、
バイタリティーの塊のような彼のこと、そんなに心配はしていなかった。
メールを読んだ時「ああ、いっちゃったのか」という気持ちだけが残った。
こんな結果を彼は想像もしていなかったし、きっと死ぬまで頑張っていたんだと思う。
彼にとっても辛いことだが、残された奥さんと娘さんはこれからずっと
この苦しさが続いていくのだろう。他人事だとは思えない切実さだけが残った。
人間を初めとして命あるものは死というものから逃れる事はできない。
命を授かったその瞬間から1歩1歩確実に死に向かっていると言ってもいい。
若い時には気にならなかったその歩みも、近頃は背後から近づいていることが判る。
3歳で不慮の事故にあって死んだ子供も、100歳まで長生きして老衰で死んだ年寄りも、
どういう死に方であったにせよ確実に死んでいる。
この宿命から逃れ得た者は地球の歴史が始まって以来誰ひとりいない。
と言うことは判っていても、友人の死は私の心を氷らせる。
《06.10.4》

佛教尊像修復院

広大な寺域を誇る園城寺(三井寺)の一角に佛教尊像修復院がある。
元々は今から10年前の平成8年、伝統技法継承者の育成を目的とした
園城寺伝統技法教習院を創立したのが始まりだという。
その後、平成11年に園城寺佛教尊像修復院として新たに設立された。
全国の寺院に伝えられる仏像は人々の信仰によって長い間守れられてきたが、
文化財に指定されない仏像は行政の修復対象から外され痛んだままというのが現実だ。
園城寺ではこうした現実を踏まえ、修復と新たな仏像制作を続けているという。
名前は立派なのだが、その実体はというと日本美術院で長年修理に携わってきた
主任技師と3人の若い技師、それと紅一点の研修生の合わせて5人だけ。
若い技師のひとりが「文化財指定以外の仏像でも心引かれるものがたくさんあって、
休日にはたいてい仏像を見に行っている」と話していた。
まさしく緑にけむる古刹に、何処からともなく吹いてくる風のようだった。
《06.10.5》
by tomhana0903 | 2006-10-05 06:43


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