人生の御負け[アーカイブ]
2010-03-13T14:47:26+09:00
tomhana0903
★積もりに積もってアーカイブ。言うなれば過去の記録の保存庫です。
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心の曼陀羅:18
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2010-03-13T14:45:00+09:00
2010-03-13T14:47:26+09:00
2010-03-13T14:45:37+09:00
tomhana0903
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夏の日の一瞬/後編
代わって御女中側。
御女中は全員で8人がこういう役にあった。
御女中にも段々あって、この廊下を通るのはこの4〜5人である。
その中に節という若くて美しい御女中がいた。
この御女中達に長吉のことが噂とまでいかなくても、
それぞれが冷やかし、物珍しさ、楽しみ、憧れ、と
そのようなものを各々別個に少しずつ持っているということは事実であった。
いずれにしても長吉にすれば月とスッポン、
全く別世界の高いところにいる人達で、
所詮、どうにもならないものであり、絵を見ているようなものであった。
けれども人間である以上、身分がどうであろうと胸騒ぎは止めどないものであった。
御女中衆にしても厳しいお行儀の中に、
明けても暮れても代わり映えのしないお役勤めであれば、
ふと、こういう瞬間に楽しみを持とうとするのも当然なことといえよう。
「ちょいと、今日も来てるかね」
ひとりの女中がそう言って立ち止まった。
「さっき、ちらっと見たように思いますが、居ませんね」
茶室からの帰りの廊下で御女中達がお庭を覗いてそうヒソヒソ話をしている。
気のせいか、こういう御女中の美しい白面のお顔が
何か詰まらそうな顔に眺められるのだった。
長吉が死角の松から下りてきて、額の汗を拭いながら頭の方へとやってきた。
「どうしたい」頭は彼を見て言った。
「ちょっと、手鋸を」
「そこいらにあるはずだ」
彼はそれを抜き取ると鋸をペコペコさせながら戻ろうとしたちょうどその時、
突然、廊下の方から「アレッ〜」という声と共に
長吉の足許に丸盆がひとつ転がってきた。
長吉はその盆の来た方を見た。
そこには御女中が2人、落としたものを拾っていた。
お座敷から盆を幾つも重ね持って廊下を帰りつつあった御女中のひとりが
庭の長吉をふと認めて、そちらに気を取られている瞬間、
反対から来ていた御女中とがぶつかり合ったのだった。
その拍子に持っていたお盆が崩れて1〜2枚が庭へと転がり、
長吉の足許へ転がってきたのだった。
お御女中はまっ白い夏足袋であり、庭へは出られなかった。
困っているところへ長吉がそれを拾って近寄ってきたのだった。
御女中は節という例の美人であった。
長吉はお盆の汚れを払うようにしながら丁寧に廊下の端にそれを置いた。
瞬間、御女中の目と彼の目がぴったり合った。
「すまなかったの」
にっこりとした御女中の声に長吉は無言であった。
目礼をして彼はそこを引き下がった。
2人共、むろんこんなに近くで共に噂の人を見たのは初めてだった。
双方、胸がときめいたのは言うまでもない。
「うまく転げやがったな神様、とんだおいたをなさるわい」
この様子を見ていた頭が口の中でそう言っておもしろくなさそうな顔をした。
今、庭には葮花の花盛りである。
かの御女中の顔が暖かくもその花のように、白く美しく夢のように浮かんでみえた。
この夏の日の一瞬は、
あるいは御女中にも、また長吉にも長く心に残ることになるのかもしれない。
庭先に祀ってある小さな稲荷神社の赤い鳥居が何故か眩しかった。
鋏の音に混じって、白い夏の花を揺するかのように
お城からの昼を知らせる大太鼓の音がどどん、どどん、と響き始めた。]]>
心の曼陀羅:21
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2010-03-13T14:17:00+09:00
2010-03-13T14:18:39+09:00
2010-03-13T14:17:26+09:00
tomhana0903
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祝言の夜/後編
こういう物が素早く作れたのも、実は宗助の母が
お城御膳部方手元として長年仕えていて、その折よく心得ていたからであった。
それをこの叔母も習っていたのであろう。
また、宗助如き足軽分際でこうした家らしき家に住めるのもこの母のお陰であった。
母の功労と彼の実直な勤めぶりとがこうした破格をもたらしているのだった。
「さて、皆のもの、共に祝おうではないか」
藤左衛門の言葉に銀蔵が何かお許しでも受けたかのように深々と礼をして、
酒を運ぶよう合図した。
やがて運ばれてきた誠に粗末な酒徳利と杯が皆に行き渡ると、
それでも銀蔵が更に畏まって藤左衛門の方へ一礼し、挨拶をはじめた。
挨拶は突然のお役様のご臨席にもったいなさを覚え、
花婿花嫁はじめ一同この上なき光栄な事であることを述べたあと、
大変不躾のことながら、お役様に杯がかりをお願い致したきことを
恐る恐る申し上げたのだった。
「よいであろうぞ」
これに対して藤左衛門は真面目な表情となって承諾した。
そして、彼自らさっそく杯を手にし、皆を促したのだった。
続いて彼は宗助の方を見て、
「目出度き今日を基として末永く幸せであれ、よくお勤めに精を出し、
孝養を忘れるでない」以上のような言葉を手短に言ったあと
「では、杯を乾せ」と、言った。
一同はこれに恭しく従った。
このあと、宗助とてつは正面から静かに外れて中に出て、
お役様の方へきちんと並んで座り、頭を下げ丁寧にお辞儀をした。
2人が席に戻ると、藤左衛門が続けた。
「では拙者、外は春の雪、とまいるかの」
と言って、座ったまま舞楽のひとつを謡い始めた。
「…舞うほどに、昔の花の宴のほど、おぼし出て…」
声は高々と響く、おおよそ足軽宗助なぞの家や祝言には相応しくない謡いであったが、
皆、涙ぐまんばかりの有り難さで聞き続けた。
謡いが終わると、藤左衛門はすぐ
「では、拙者はこれで戻ると致す」と言って立上がった。
彼は立上がると宗助の方をちらっと見て、
「宗助、よい嫁ではないか。可愛がってやれよ」と慈愛の表情を向けたあと、
「とんだ飛び入りであったの、許せよ」という声を残して、
来た時のようにぴしっとした姿勢に戻って、
そして、袴擦れの音を聞かせながら入口の方へと向かった。
一同これに従い暗い外へ出た。
勝手元にいて暖を取って待っていた下僕がすかさず藤左衛門の足許へ提灯を寄せた。
座敷へ戻った皆はさっそく出された熱いけんちん汁に腹を温めた。
「どういう風の吹き回しであったのか、それにしても有り難いことであったわ」
宗助の叔母がつくづくそう言って、嬉しげな表情をした。
酒宴が終わったのは、それからしばらくたったあとであった。
祝いに集った客がそれぞれ皆帰ったあと、新妻てつは暗い表へと出た。
薄明かりの中にお千代保稲荷の赤い鳥居がぼんやり浮かんでいるのが判った。
雪はなおゆるやかに降り続いていた。
ほっとしたのか、てつはその雪に手をかざしながら、
自分の家ができたことを心底から嬉しく思い、涙ぐんだ。
そして、降る雪にさえ匂いのあることが思われるほど、幸せであった。
宝歴3年3月24日、この嬉しい夜も既に更けようとしていた。]]>
心の曼陀羅:20
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2010-03-13T14:14:00+09:00
2010-03-13T14:15:46+09:00
2010-03-13T14:14:28+09:00
tomhana0903
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祝言の夜/中編
この様子に、銀蔵をはじめ皆もお叱りでないことが察せられたのか、
ほっとして、やっと安堵の目を上げた。
藤左衛門が奥に向かって進もうとしたのを見て、今度は正面の宗助がうろたえた。
そして彼は慌てて自分の席を立ち、そこへ藤左衛門を招し上げようとした。
「おう、宗助であったの、拙者は今宵は婿殿ではないのでな、その席には座れまい。
宗助、うろうろせずにおのれの席へ戻れ」
藤左衛門はにっこりと笑みを浮かべながら
「わしはここに来るとする」と言って宗助に近い上席にゆっくりと袴を折って座った。
座布団もない黒い畳の上である。
そこへ、どこからか小さな火鉢が恐る恐る近付けられた。
この勘定方に付いて、宗助は一度江戸までお供したことがあった。
ただし、常々は口も交わせないほどの高いお役方である。
うろたえない方がおかしかった。
一同の中に座った藤左衛門はあたかも
鶏の中に舞い降りた鶴のように高い品格であった。
腰の両刀の柄が行灯の明かりに金銀鈍く光って見えている。
「おう、そうだ、お役様の御前にお杯を」
ようやく落ち着きを取り戻した銀蔵が宗助の叔母の方へ向かって合図した。
その時「今宵は拙者も喜ばしい日であっての」
と藤左衛門は火鉢に手をかざしながらゆっくりと言った。
「一年間の御年貢の事がことごとく終わって、
今日そのお祝に各々重役方と式次第のあと一献きこし召してきた。
その帰りじゃ、顔が赤いであろう、やれやれであり、ほっとしているところであるわ。
ここも酒宴ではなかったのか、左様であれば拙者これに受けるとするか」
と言って藤左衛門は袂を探ってそこから白い紙に包まれた朱の木杯を取り出した。
これを見た銀蔵がすかさずお盆を取ってその杯を恭しく受けた。
そして「お浄めいたして参ります」と言って立って行った。
そのあとに宗助の叔母が続いた。
藤左衛門は今度は左の袂よりまた白い小さな包みを取り出し、
手に持った扇子を開いてそれに載せ「心もちじゃぞ」と言って
宗助の後ろの台に白扇ともども置いた。それに宗助はもちろん、皆深く頭を下げた。
扇面の置かれた隣には小さな行李ひとつが置かれていた。
そのくくり紐には南天の小枝が刺さっていて、
南天の赤い実が行李の上にパラリと広がっていた。花嫁の荷物であるようだった。
これをチラリと見た藤左衛門が言った。
「花嫁の名は何と申した」
これに隣の宗助が平らつくばって「はッ、てつと申します」と言った。
「ふう、てつとな。優しいおもてに似合わず堅い名であるの。
よいよい、よい名じゃ。明日からは世帯者、世帯は堅くてはならぬからの」
花嫁は頭の下げっぱなしである。
この時はじめて嫁の父親であるらしい男が両手を突き
「不如意にございまして、角隠しも与えませず、お恥ずかしい次第にございまする」
と恐縮の体で頭を下げた。
「何、よいよい、そういう物はなくても事は済む。
明日から、もう角を出せばよいのじゃからの、の、嫁ご」
この言葉に、一同がようやく口に手を当てて微笑んだ。
やがて、先の朱杯が運ばれてきた。目頭高く捧げ持つは叔母の松であった。
杯はそのまま藤左衛門の前に丁寧に置かれた。
「お、参ったの」
彼はそう言いながら盆の上の杯を覗き見た。
そして「おう、これは酒中花ではないか」と目を広げた。
(酒中花とは山吹の髄などで花鳥その他色々な形を作り、押し縮めておき、
酒杯の中に浮かべると、ふくらんで美しく開く。特に祝宴などで供じられた)
「これは美事」
藤左衛門は朱に金杯の杯、その中に浮かぶ美しき酒中花をじっと見詰めた。]]>
日々の雑記帳:17
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2006-10-25T06:55:00+09:00
2010-03-13T09:56:37+09:00
2006-10-25T06:55:12+09:00
tomhana0903
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豊臣秀吉の時代、何をとち狂ったのか秀吉が朝鮮征伐を始めてしまった。
そのため日本中の多くの武将達雑兵が訳も判らず朝鮮へと渡っていった。
そんな中、朝鮮出兵に狩り出されてはるばる朝鮮半島に渡ったのはいいが、
秀吉に反抗して朝鮮側に寝返ってしまった一族がいる。
そのリーダーの名は朝鮮名で金忠善というそうだが、
彼の日本名は「さやか」とだけ伝えられている。
「さやか」とは何者か?
かつては左衛門が訛ったのではないかと思われていたが、
最近では「雑賀」ではないかという説が有力だという。
根来衆と同様に雑賀衆は紀州にあって戦国最強の鉄砲集団を形成していた。
しかし本願寺に味方したという理由で、秀吉によって屈服解散させられた。
雑賀衆は古くから独立心が旺盛な紀州人の性格そのものような人達だと言われている。
そう言えば昔、知り合いにさやかという娘がいた。
三十路を過ぎても独身だったが、今どこでどうしているのやら。
海外旅行が好きだったが、もしや韓国にいるということは、ないわな。
《06.10.21》
ミラクル3
天皇家に伝わる秘宝で3種の神器というものがある。
その神器は鏡、剣、勾玉の3種類でそれぞれに名前が付いている。
八咫鏡(ヤタノカガミ)と草薙の剣(クサナギノツルギ)、
それと八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)である。
一応神話では天津彦彦火瓊瓊杵尊が天照大神からこれらを授けられて、
降臨したという話からこれら3種の神器は皇位の象徴とされ、
現在の皇室典範でも皇位継承に際して、これらを継承することが明記されている。
天照大神の岩戸隠れの際に用いられたとされる八咫鏡は
現在、伊勢神宮に保管されているという。
また、天照大神が岩戸隠れした際に大神を呼び戻すために飾られた勾玉が
八尺瓊の勾玉で現在は宮中に保管されているという。
最後の草薙の剣は伝説のスサノオが八俣の大蛇を退治した際、
大蛇から取り出し天照大神に献上したという剣で、
現在は名古屋の熱田神宮に保管されているという。
いずれも後世に作り替えられたもので、当然実物ではない。
しかし、皇位の象徴とされる神器が宮中と伊勢神宮にあるというのは
判らないでもないが、あとひとつが何故熱田神宮にあるのか。
「一度調べてみる価値はあるな」と思った。
《06.10.23》
地図:1
地図を見ていて、どう考えても不思議だなと思うことがある。
例えば、三重県伊賀市中心部の地図で私の疑問を紐解いていこう。
伊賀上野城を中心に服部川と木津川に挟まれて広がる伊賀市。
南北約5km弱と東西約4km弱のスペースの中に保育園と幼稚園は10カ所。
市立の小・中学校は6カ所、公立高校も3カ所、郵便局は8カ所、
銀行は9カ所、コンビニが8カ所、なくてはならないGSは全部で17カ所もある。
それらに対して宗教施設はどのくらいあるかというと、
同じ範囲に神社が10カ所あり、寺院は何と19カ所もある。
更に、天理教会も加えると全部で20カ所もあるということになる。
ついでながら聖ヨハネ教会というレッキとした教会もある。
外国のことはそんなに詳しくはない私だが、
例えば、日本よりも宗教に熱心だと思われているアメリカの国内で、
伊賀市と同じ規模の地方都市の同じような範囲に教会と名の付くものが
果たして20カ所もあって、20人もの牧師がウジャウジャといるのだろうか。
そのことが気になって夜もおちおち眠れない。
《06.10.24》
世界の人口
最近、アメリカの人口が3億人を突破したというニュースが飛び込んできた。
この結果は医学の進歩で生存率がよくなって、死亡者より生まれてくる人が多くて、
という話ではなくて、主に中南米からの移民の増加でこうなったという。
ちなみに、世界の国の中で人口の多い方から順に言うと、
1位が中国で13億2千万人、2位がインドで11億人、3位がアメリカで3億人、
4位がインドネシアで2億3千万人、5位がブラジルで1億9千万人だということだ。
肝心の日本はと言うと第10位で1億2776万人いるという。
そして日本では毎日2909人もの人が生まれて、3041人もの人が死んでいる。
世界にどれくらいの国があるのか知らないが、10位とは意外に日本人は多いなという印象。
このての話は知られているようだが、人口の少ない国となると余り知られていない。
5位がモナコ公国の3.3万人、4位がサンマリノ公国の2.9万人、3位がパラオ共和国の2.1万人、
2位がナラル共和国の1.2万人、そして断トツの1位がツバル共和国9千人しかいない。
結果、世界中で見ると1分間に150人増え、1日に20万人増え、1年に8千万人増えている。
内訳をいうと1年間で6千万人が死に、反対に1億4千万人が生まれている。
で、今の世界の人口なんだが、何と65億4812万人という結果が出てるらしい。
が、刻々と増え続けているので正確な数字はいつまで経っても出てこない。
《06.10.24》
赤ひげ
黒澤明監督の「赤ひげ」を何十年ぶりにビデオを借りてきて観た。
2本組で180分強という恐ろしく長い作品だし、初めて観る作品ならいざ知らず、
以前2〜3回観た映画だったので当然「全部観れるかな?」と疑ってしまったが、
どうしてどうして2日に渡って(1日に全部観るには長過ぎる)一気に観れた。
この映画、画面は白黒だし、話も江戸時代の療養所の医者の話で
監督お得意のスペクタクルもないし、どんでん返しもなければ思わぬ展開というのもない作品。
しかし、淡々とした話がただ淡々とゆっくりと続いていくだけなのに、
なぜかついつい引込まれるように観てしまった。
なぜ引込まれたかというと、全編にわたって幸せから一番遠くにいるはずの、
それも世の中の底辺に生きてる人達がその境遇にもめげずに正直に、そして健気に生きている。
その一生懸命さを名のある俳優の演技力に頼ることなく丁寧に真正面から見せてくれる。
このことに素直から一番遠くにいる私が感動させられた、という訳だ。
そういえば、交渉人ナニガシという最近ヒットした映画をテレビで観る機会があったが、
こう言っては何だが、10分も観てることができなかった。
どうしてこんなに詰らないものしか作れなくなってしまったのか。
こんな現状では日本映画再生なんて、夢のまた夢の話だと思った。
これではアニメを観てる方がよっぽどマシと思うのは私だけなんだろうか。
余談だが、赤ひげという言葉から赤ひげ薬局という名前が頭に浮かんだ。
これ、名古屋人なら誰でも知っている。
《06.10.25》]]>
名古屋巡礼記:83
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2006-10-25T06:48:00+09:00
2010-03-13T09:58:46+09:00
2006-10-25T06:48:04+09:00
tomhana0903
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∴ひょんなことから、四日市と亀山の街を巡礼する機会があった。
と言っても下調べ等、準備万端整った本格的なものではなく、
あくまで別の用事の付け足し、いわゆるオマケのようなもの。
初めは近鉄四日市駅から200mぐらいしか離れていない鵜森神社というトコロ。
市立の博物館や四日市都ホテルなどが立並ぶ一等地とも言うべきエリアの一角にある
広大な鵜森公園の、これまた一角に鎮座している神社で、駅の反対側にある
諏訪神社の双璧を成す神社という触れ込みを間に受けて、早速行くことにした。写真:お約束のように行くまでの間にMH探しもしたんだな。
∴三重県にある神社だけの特徴かどうかは知らないけれど、
神社の一番の華である拝殿が一目見て神社の建物らしくないということ。
どちらかというと仏教の施設みたいで何とも面白くない。
お参りするトコロに鈴がぶら下がっているからいいものの、
これでは御利益にも陰りを感じて、まことにもってよろしくない。
と、イチャモンを付けながら、拝殿に近づいて行った。
普通ならいるはずの狛犬もいない。
回りを見渡すと、ここから100M程離れた最初の入口の門の上にいるではないか。
それも何かのマスコットのように脈絡もなく。
この神社、何とも中途半端なコシラエであった。写真:唯一の狛犬がこんな高いトコロにいた。
∴そう言っても、駅の向こうにあるという諏訪神社は今回パスと心に決めていたので、
この神社を徹底的に調査しなければならないが先が思いやられる。
そう思って注意深く見回すと、深紅のノボリの行列が隅の方から飛び込んできた。
そう、もうお判りだと思うが、狐が神使を勤めるお稲荷さんがあったのだ。
しかし、ここの稲荷神社も長年巡礼に明け暮れている私からすると
物足りない感じ(という訳でもないが名前は忘れた)であった。
メインもダメ、サブもダメ、雰囲気を醸し出す装備品はというとこれまたダメ。
もうここにいる理由もなくなった。写真:拝殿の全景はこんな感じ。どう見ても曹洞宗の僧坊みたい。
∴一応、四日市に来た用事も無事済んで、後は自由行動の時間に相成った。
ということは何処でも好きなトコロへ行ける訳だ。
てな訳で、M美に三重県の地図を買って来てもらって場所の特定に入る。
今回は亀山方面に行くと何の理由もなく決定しちゃったのだ。
来た時と同じように東名阪自動車道で亀山に向かった。
自動車での移動に何故お金のかかる高速道路を使うのか?
理由は簡単なのだ。私の場合、障害者手帳を持っているので
申請した車に限って高速道路の料金が半額という特典付き。
片道の料金で往復行って来れる。コレでは使わない手はないという訳よ。写真:この狐は愛嬌のある顔つきをしてた。
∴亀山というトコロは亀山城もあるし、名古屋から遠くもないし、
伊賀にも津にも行ける交通の要衝の地なので来たことあるのかと言うと、
それが1度も来たことのない、まさに処女地のようなトコロ。
期待が持てそうでそうでもないのか、行ってみれば判ること。
最初に訪れようとしたトコロは亀山ICの近くで、
「昼寝観音」という寺と「布気神社」というところが幹線道路から1本入った
細い道沿いに寄り添うようにしているんじゃないかということを地図から読み取った。
実際はというと、山あいを縫う間道のような道で最初にあるはずの
昼寝観音は発見できず、次の布気神社は灯籠を発見して、ようやく辿り着いた。
階段を登ると、そこは拝殿前の広場のようなトコロ。
まずは全体を見回して位置関係を見る。
それによると登って来たところはこの神社の裏門のようなトコロだった。
まずはちゃんとした神社で安心した。写真:裏門のトコロにいた狛犬。
∴古くて大きい御神木や清掃の行き届いた境内を見ていると、
この神社が近隣の人々から敬われ、なおかつ親しまれていることが判る。
拝殿は最近建て替えたみたいで、無垢の木の感じが初々しくてこれまたいい。
こんないい加減な時代でもこうやって守られている神社があることにほっとする。
拝殿前にあった御神燈を見て思わず「あっ、平家だ」と呟いていた。
驚いたのも当然。拝殿前にあった御神燈と書かれたに大きな提灯に、
この地方では見なれぬ蝶が羽ばたくような家紋が付いていたから。
T美がどこで見つけて来たのか
「この神社、布気皇舘大(フケコウタツダイ)神社だって」
と、ご注進といわんだかりに目を輝かして、駆け戻って来た。
私は心の中で「いい子、いい子」と頭をなぜてやった。写真:こんな感じの拝殿だった。
∴こういうところに来ると、仲のいい3人でも自ずと行動は別々になるみたい。
私はM美のあとにお参りを済まし、本格的調査に取りかかる。
拝殿前には狛犬はいなかったが、来た時の裏門の近くにまずは1匹ゲットした。
まずまずの古さだということは一目見て判ったんだが、
台座に奉納した年月が彫ってなかったので判らずじまい。
よくよく見ると、広い境内の割に弊社はひとつあるだけでちょっと物足りない。
正門に当たる方に行くと入口から広場まで一直線の参道に石灯籠が続いている。
神社らしくないが、これが幻想的でまたいいだな。写真:M美の後ろ姿も幻想的であった。
∴一応見て回ってここでの調査もだいたい終わったという感じ。
地図では何処といって代わり映えのしない普通の神社のように見えたが、
来て見ると、この地方屈指の神社ということが判る。
こういう神社をいとも簡単に見つけちゃうところが私の凄いところなのかもしれない。
しかし、由緒のある神社にしては拝殿前に狛犬がいないことが引っ掛かる。
「ひょっとしたら」と思い付いて普段見ないような拝殿の横に回って、
拝殿から本殿へと続き参道(普通、人の入れない神域)を見ようと覗いたところ、
今までに見たことないようなヨツンバの狛犬が参道を挟んでいるのが見えた。
この時の嬉しさといったら、尋常じゃなかった。
というのも、これまで数多くの狛犬を見て来た私でも、
こういう格好をした狛犬は今まで一度も見たことがない。
そういう逸品だし、イツのモノかは判らないが年代モノということは判ったし、
1年通して一度あるかないかというビックチャンスに
取り敢えず遭遇したことだけは間違いないと確信した。写真:顔が見えなかったのは返す返すも残念。
「こりゃあ、幸先いいぞ」よ漁師のような顔つきになっていた。
この続きは次回のお楽しみということで。
[現場の確認]
鵜森神社
布気皇舘大神社]]>
名古屋巡礼記:82
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2006-10-23T06:53:00+09:00
2010-03-13T10:01:12+09:00
2006-10-23T06:53:51+09:00
tomhana0903
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いよいよ、クライマックスの聖地に突入する時が来た。
光明寺の道を挟んで南側に広がる一種独特の街が全国有数の遊郭街だった大門。
今でもその名残が感じられ、不思議な空気が漂っている。
その遊郭街の北の外れに私は立ったのだ。
しばらく行くとこれまた地図に記載のない神社が現れた。
「スサノオ神社」という名前で、地図に載せなくてもいいという神社ではない。
レッキとした由緒正しき神社が地図に載っていないとはナンタルことか。
しかし、境内を見回してみると何だか変なものが隅の方にあった。
ハッキリとは判らなかったが、どうも例祭か何かの時に集まって来た信者に向けて、
何かを販売する売店のようなものじゃないかとアタリを付けた。
これが木製の立派なシロモノで、神社のこれに賭ける気迫のようなものが感じられた。写真:神社の右奥にある建物も関係あると思うんだが定かではない。
巡礼の途中に、へんな居酒屋にぶち当たった。
繁華街からちょっと離れたトコロにポツンとしてあった。
これがまた、ひとこと「凄い!」という言葉しか思い付かない店なのだ。
店の名前「ゆり香」というのはゴクゴク普通なのだが、
店を取り巻く色使いにタダモノではない片鱗を十二分に感じてしまったのだ。
鮮やかというより毒々しい緑が壁中を覆い、無国籍なテイストを醸し出しながら、
ちゃんと定番居酒屋の決まりごとである赤い提灯は忘れていない。
このシチュエーション、一度見たら忘れられない感じで深く心に刺さった。
そうは言うものの、最終的な私の感想は「この店、病んでいる」という冷静な判断。
少なくとも一生に一度も入ることは絶対にない、そういう店だった。写真:居酒屋ゆり香の全景、思い知ったか。
南へ向かって歩いていくと、朝から活気のある生活感溢れる通りが続き、
地元の大手スーパーであるユニー中村店も見えてくる。
立体駐車場完備の大きなSCで、近所の主婦達が朝から大勢買物に訪れていたが、
よく見ると大衆の殿堂ユニーの右隣そしてナント向かいも、
隠しようのない大人の殿堂、燦然と輝くソープランドがあるではないか。
目を凝らすと「ブラジル」とか「インペリアル福岡」というのはまだしも、
「アラビアンナイト」とか「令女プール」といったそれらしい名前が
毒々しい色使いと書体で街中イタルトコロに顔を出していた。
いくらこの街がかつて遊郭街だったからとはいえ、
この光景には部外者で、かつ初めて訪れた私としても到底納得できるものではなかった。
そう言いつつも、買物を終えた主婦が買物袋を抱えて自転車に乗って
ソープランドの前をゴクゴク普通に通り過ぎてゆく毎日。
すぐ近くには笹島保育園、日赤愛知短大といった健全な施設もある。
日常の中に潜む異常なヒトトキという感じで、ただただ新鮮なトコロだった。写真:この裏寂れた街の中にソープランドが点在している。
また、この街には1994年に名古屋市都市景観重要建築物の指定を受けた、
「長寿庵」「旧松岡旅館」「料亭稲本」という遊郭が当時のままで残っている。
◆長寿庵:かつて2軒続きだった建物のうち、その南側のみが修復されて現存している。1階の窓には連子格子が見られ、2階には高欄があり楼閣建築の特徴がよく出ている。また1階入口には当時を偲ばせる美人画が掲げられており、かつての遊郭街を思い起こさせてくれる。入口には「笹島(54)××××」という、ここの市内局番がまだ2ケタだったころの表札が貼ってあったりと、昔と変わることなく今もそこに歴史が残ってる。
◆料亭稲本:こちらは江戸末期の爛熟した文化を背景にした異国情緒たっぷりの造りで、門は反りの強い中国風となっている。料亭は今でも営業しているみたいで、江戸時代の建物にて庭園を見ながら食事をすることができる。また、お座敷だけでなくテーブル席もあるとのこと。お座敷とテーブルではメニューが違い、お座敷でのコースは6000円と8000円の2コースがあるという。たまには江戸時代にタイムスリップして食事をするのもいいかもしれない。写真:いかにもという長寿庵の全景。
大門(オオモン)の交差点から200m行ったところに「中村天神社」がある。
ところで、オオモンという地名はここにだけあるのではなく、
一般的にオオモンとは遊郭の正面入口のことを指した言葉と言われている。
遊郭言葉をそのまま正式な地名にすることに抵抗があったのか、
ここら辺りの地名は大門町と書いてダイモンチョウと言うのだそうだ。
変なことで脱線してしまったが、ここ中村天神社は知る人ぞ知るという神社。
こじんまりとした拝殿、弊社もちゃんと備わっているのだが、
鎮守の森がないせいか、今ひとつ落ち着けるという感じがしなかった。
やっぱり暗いトコロにロウソクの灯りというのが神社の定番。
ここも、もう少し暗かったら神社らしい雰囲気が出ていたのかもしれない。写真:中村天神社はこんな感じ。
今回の巡礼の最後を飾るトコロがここから約500m西へ行ったトコロにある
その名もズバリ「中村八幡社」という神社なのだ。
行く途中に「仲井筋緑道」という名の緑道があったが、これは昔の川の名残り。
川の流れを埋めた土管の中を通して地上からは見えなくしたもの。
だから、緑道と言っても植物の緑は一切なくて、コンクリートで覆われた道のような、
かと言って車やバイクは通れなくて、ただ凸凹した歩道のような道。
中村八幡社はエアーポケットのようなトコロにひっそりと佇んでいた。
思いのほか広い境内、鎮守の森もそれなりにあった。
難を言うと、拝殿前にいるはずの狛犬がいなかったこと。弊社がほとんどなかったこと。
言い出せば切りがないので止めにしとくが、まずまずの神社ではないのかな。
ここで、今日持参した賽銭用の5円玉がちょうど底を突いた。
満願成就ということにしておこうかな。写真:中村八幡社はこんな感じ。
帰りは「中村日赤」駅から帰ることにした。
しかしこの駅、どうしてこうなったのか判らないが、出入口はわずかに2つだけで、
中村日赤側の出入口には何の細工もなくただ階段があるだけ。
鳥居通を挟んだ向こう側にエレベーターが設置されているようだが、
どう考えても納得できない。何か不純なものすら感じてしまう。
これでは病人は使わなくてもいいと言っているようなもの、猛省を促したい。
余談だが、駅の真ん前に「清正幼稚園」という名の幼稚園があった。
さすが豊臣秀吉と加藤清正の地元のことはある。
他に豊臣幼稚園、豊臣小学校、千成保育園、千成小学校、太閤通
日吉保育園、日吉小学校、日吉公園、日吉派出所と枚挙にいとまがない。写真:正式名称を「名古屋第一赤十字病院」という。
[現場の確認]
スサノオ神社
中村天神社
中村八幡社
名古屋第一赤十字病院
地下鉄「日赤」駅
オマケの写真:この街を象徴するかのように寂れた街の片隅に
「毎日旅館」という、ありそでなさそな変な名前の旅館があった
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心の曼陀羅:40
http://tomhana092.exblog.jp/4768027/
2006-10-21T10:22:00+09:00
2010-03-13T10:05:20+09:00
2006-10-21T10:22:48+09:00
tomhana0903
未分類
「それはそうだが、慎太郎。考えてもみろ、
今お前が騒いで付いて来る奴がいるとしたら土佐藩士を除いたら薩摩藩か?
そんなとこだろう」と言うなり、坂本龍馬は中岡慎太郎の目を見ながら自説をコンコンと、
まるで自分の教える生徒に諭すかのように話していた。
「俺もアイツは気に入らない。上士風を吹かして何様だと思っているんだ。
奴はこれからの時代に取り残される典型的な役に立ちそうもない武士だと思う。
しかし、今は違う。そして、少なくともこれから半年ぐらいは違うだろう。
俺達が目指そうとしている薩長同盟に土佐を組み入れた薩長土同盟締結に向け、
土佐藩を動かせる奴なくして、この計画を軌道に乗せることは不可能に近いだろう。
もたもたしている内に幕府と徳川慶喜がどんな手を打って来るのか、
それこそ余談を許さない切羽詰まった状態が今の状態なんだ。
今、奴を消して得るものは何もない。あるとしたら、お前の満足感だけだろうな。
そんな安っぽい正義感だけで、やらせる訳がないだろう。そうだろう、慎太郎」
龍馬の話は次第に暑っぽい方向へ向いていった。
●
「いや、今は絶対にやらせない。いくらお前の頼みであってもだ。
いくらお前の女に関する頼みごとであってもだ。奴には一歩たりとも近づけさせない」
ちょうどその時、階下にいた藤吉が来客のあることを告げに来た。
「何でも薩摩の中村というお方が中岡様がここにいると聞いてきた。
と面会を求めて下に来ていますが、いかがなさいますか」とのことだった。
龍馬は「断わる訳にもいかないだろうし、しょうがない、お通ししろ」
と藤吉に答えながらも慎太郎に向かっては
「こんな夜分に薩摩の者が何の用があるというのだ」と訝しく問いただした。
「さぁ、何の用があってか、私は一向に知らないのだが」と
何か奥歯にモノの挟まった、いつもの慎太郎らしくない物言いだった。
トントントンと階段を上がる足音が龍馬達のいる部屋でも聞こえていた。
足音からひとりだということが判った。
客は2階に上がると「薩摩の中村ですが、入ってもよろしいですか」
と、襖の向こうから声を掛けてきた。龍馬は直ぐに「ああ、いいよ。お入りください」と言った。
「薩摩の中村? なぜ奴が来たんだ?」慎太郎にとっても中村半次郎の訪問は
想定外以上の何ものでもなかったのか、
心の中でそれぞれの動きを慌ただしく想像していた。
●
「近くまで来たのでお寄りしました」と言って中村は何気なく襖を開けて入って来た。
龍馬と慎太郎を前にして中村は
「先程の手紙に書いてあったことが、ホントかどうかちゃんと確かめてこいと
西郷に強く言い付けられ、仕方なくまかり越しました。中岡殿、いかがですか」
と何の躊躇いもなく、どんどん話を続けていた。
「西郷が言うには最近、特にここ2ヵ月の間に土佐藩は、
中でも坂本さんの変貌は目に余るものがある。
あんなに討幕に積極的だった坂本さんが最近の禁裏を巻き込んだ一連の動きには
キナ臭い策動が読み取れ、それが誠なら、由々しき事態を招く。
この策動には何やら根底から討幕運動を覆すチカラを持っている気がする。
こんなことは坂本さんなら判るはずだが、だからこそ、来年と言わず年内に我々は、
討幕運動を始めた同士として、膝を突き合わしてゆっくり話し合わなければならない。
と、話していました。そしてその話し合いのこと、坂本さんの都合なんかを
聞いてこいと、拙者に命令されました」と中村は包み隠さず2人に伝えた。
●
峯吉少年が出ていってからそんなに時間も経っていないのに、
思ってもみない展開に、龍馬自身も当惑していた。
するとどうだ、中村が慎太郎に向かって
「中岡殿、さっきの書状に書いてあったことはホントのことなんだろうな。
今更、どうのこうのと言われても、もう動き出してしまっていることだから。
書状には坂本さんも同意していると書いてあったが、この状態を見るとそれも疑わしいな。
どうなっているんだ、中岡殿」と詰め寄るではないか。
「慎太郎、何の話だ。それと…」という龍馬の話が終わらない内に、
中村は置いてあった刀に手を掛けると、有無も言わさぬ早業で
龍馬に向けて一刀のもと、渾身の力を込めて切り開いた。
一瞬の隙を突かれた龍馬は一言も発することはなかった。
彼の眉間からは止めようもないほど血が次から次へと沸き上がってくるようだった。
●
この一撃が致命傷だった。
その後も無意識の内に刀を振り回していた龍馬だが、
朦朧として意識がなくなるにつれ、後は死を待つばかりであった。
剣客を自認していた龍馬にしてはお粗末な結果だが、前日からの風邪で身体が冷え、
薬として飲んでいた酒が致命的な結果を招いたと言えなくもない。
何の前触れもなく起きたこの事態、一瞬の出来事に
「何をする」と言った慎太郎にしても見るからに動揺していた。
「何をする、ではないだろう。お主の手紙にはあれほど激烈な言葉が並んでいたので、
てっきり心が決まっていると思って、ワシは手助けするつもりだったのだ。
なにせ、龍馬はひとかどの剣客として扱われていたから。
それに比べてお主の方はこっちの方はからきしダメときている」
と言いながら刀の鞘に手を当てた中村であった。
「龍馬暗殺の首謀者はお主で、ワシは単なる実行犯。なぁ中岡殿」
と鞘に刀を納めながら、念を押すように言った。
中村の人を喰ったかのような態度、人の弱味を握った者の奢りのような態度、
それら一連の態度を見て慎太郎の中にあるものが湧き出てきた。
その時、何を思ったのか慎太郎が刀の鞘に手を掛け、刀を抜こうとしているではないか。
しかそ、その瞬間を待っていたという風に慎太郎よりも一瞬早く
中村が慎太郎に目掛けて切っ先を向けていた。
その後のことを長々と書く余裕もないので割愛するが、
慎太郎は隣の家の屋根で横たわっているところを帰って来た峯吉に発見されている。
その後、中村は何ごともなかったかのように階下にいる下男藤吉を呼んで、
2階に上がってきたところを入口で無造作に彼の口を塞いだ。
その後、中村は何ごともなかったかのように近江屋を出て、
薩摩藩邸に向かった。
●●
今となっては知る由もないことではあるが、
こういう結果を慎太郎本人はどういう気持ちで見ていたのであろうか。坂本龍馬
中岡慎太郎
これにて、この話はお終い。次回の物語りの始まりまで、お元気で。
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日々の雑記帳:16
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2006-10-20T10:39:00+09:00
2006-10-20T10:41:47+09:00
2006-10-20T10:39:38+09:00
tomhana0903
未分類
犬猿の仲というのは何も犬と猿のアイダだけに限ったことではない。
音楽の世界にも犬猿の仲というのは結構ある。
例えば、ビートルズファンとローリングストーズファンの場合のように
互いに相手のことだけは頑として認めようとしない。
当然40年以上もビートルズファンを自認する私としても
ローリングストーズが何であんなに人気があるのかが判らない。
曲作りとかヒットチャートのランキングいう点だけを見ても、
その差は歴然としているはずなのに人気という点では何故か拮抗してて、
そこがまた気に入らなくて増々相手のことを許すことができない自分がいる。
オトナゲないと言えばホントにオトナゲないだが。
考えてみたら、昔はこう見えてローリングストーズのことも別け隔てなく聞いていた。
レコードもシングル版ではあるが、1枚持っていた。
それが「レッツ・スペンド・ナイツ・ツギャザー」がA面のアルバム。
確か、こっちがB面でA面は別な曲だと思ったんだが忘れた。
このレコード、コードも採らず、歌詞も写さず、何処かにいってしまったんだな。
《06.10.17》
墓参り
先週の体育の日の休日に久しぶりに墓参りに行って来た。
久しぶりにと言っても5年や10年も行ってない訳ではない。
前回が今年の夏前の頃だから、そんなに久しぶりという感じでもない。
知多の東浦町にある曹洞宗の寺「増福寺」に我が家の墓はある。
と言っても親爺が死んだ時にここの和尚が葬式に来てくれたのが縁で、
それまで墓というものに縁がなかった我が家もここに墓をこしらえたという訳だ。
という訳で初めに親爺が入って、その後お袋もここに入っている。
長男はその頃、家のことに興味がなくなったのか、口も顔も出さなくなっていた。
しかたがないので次兄とお金を出し合ってこしらえた我が家の墓だが、
その後、次兄との感情のもつれでも何かあったのか、
今では私だけが細々と面倒を見ているという感じなのだ。
そして病気になって以来、M美とその家族に支えられて辛うじて守っている。
私が死んだら、たぶんこの墓に入るんだろうと思う。
それとも、ひょっとして何処かで野垂れ死にするのかも知れない。
まぁ、死んだ後のことはそれこそどうでもよくて、
それも人生かと未練もなく、達観しようとしている。
《06.10.18》
ゲチスバーグ
ペンシルバニア州のゲチスバーグと言えば、
南北戦争最大の激戦地であり、この戦いで南軍は敗退し2年後に降伏した。
1863年11月19日、ゲチスバーグの国立戦没者墓地の慰霊式典において
リンカーンはごく短い演説をした。ちなみに坂本龍馬暗殺は同じ年の12月10日だった。
「人民の人民による人民のための政府…」この演説が後世に残ることになろうとは、
演説をしたリンカーン本人も予想していなかったのではあるまいか。
ここで売っている「ゲチスバーグの戦闘フィギュア」というゴム製の人形セットがある。
南軍と北軍の将軍がひとりづつ、鉄砲隊がそれぞれ14名、大砲手も2名。
念の入ったことに「撃たれた」と叫んで倒れつつある兵士もひとりづつ入っている。
つまり「これは同じ人形軍団を2セット作って単純に色分けしたんだな」と、
高を括っていたらそうではなかった。将軍や旗手の格好は南北両軍で違うのである。
実によく出来たオミヤゲで、全50アイテムも入って何と700円弱と感動的な安さ。
よく見ると、袋の隅の方に中国製とプリントしてあった。
潜在的に敵対しているはずのアメリカの心とも言うべき愛国的なこんな物にまで
赤い国、中国のチカラは及んでいる。恐るべし!
《06.10.19》
不自由
今日は2ヵ月ぶりの診察の日だった。
脳梗塞になってから、あれよあれよと言う間に4年も過ぎた。
脳の中の血管が一部詰って壊死しただだけなのに、左半分の自由が今でも効かない。
起きたことのメカニズムは頭の中では一応納得しているのだが、
4年以上経っても、左手を上げようとするとあるトコロまでくると痛くて
上げられなくなってしまう。この痛みは何処から来るのだろうか、判らない。
右足を上にして足を組むことは普通にできるのに、左足を上にして組もうとすると
股関節が痛くて組めない。この痛みは何処から来るのか判らない。
風呂で頭を洗おうにも、右手しか自由が効かないので、
左手で頭にお湯を掛けながら右手で洗うという基本的なことができない。
仕方なく右手に持った桶のお湯をまず頭に掛けて、
お湯が流れ落ちない内に直ぐさま右手で洗うという早業で洗うしかない。
歩行に関しても、病気になる前は歩くということ自体を意識することはなかった。
今は意識を左足に集中して一歩一歩ゆっくりと歩こうとしても上手くいかない。
身体が無意識のうちに大きく傾いたりチカラが入り過ぎたりして、
ドン臭くも足が起伏に引っ掛かって杖を突かないと5mも歩けない。
運動神経抜群だった私が、なぜ何だろう。
やせ我慢でなく、杖を突く格好を人がどう思おうとも私は気にならない。
しかし、何をするにも不自由だ。
4年前のことを思えば自分で言うのも何だが結構取り戻していると思う。
しかし、口で言う以上に不自由だ。
一生この状態に付き合っていくしかないということは今から判っている。
しかし、身体が自由に動いた頃の夢は不思議と見ない。
時々、不自由な身体を精一杯動かそうとしている自分に出合う。
《06.10.20》
「おっは〜」
私達の間では猫の写真家として有名な知り合いが
四日市で個展を開くというので、私・M美・T美といういつもの3バカトリオで
秋の日曜日のドライブを兼ねて行ってきた。
待ち合わせ時間朝10時という私にとっては屁のカッパのような時間でも
T美には辛かったのか、案の定遅刻。
「おっは〜」と年甲斐もなく可愛い子ぶった仕草で現れた。
個展会場は近鉄四日市駅から直ぐのトコロの博物館の近くで、
ビルの1階にはシャレたイタ飯屋のあるコじゃれたトコロにあった。
他の2人は猫の写真に満足したのか、結構楽し気に見えたのだが、
私はものの5分もしないのに飽きてしまった。
猫との直の触れ合いだったら、何時間でも飽きない自信のある私でも
写真と絵だけというのでは長くは続かない。
そして、こういう自分の生活の反対側にあるような
晴れがましくて堅苦しいトコロはそもそも長くはいられない。
という訳で、この後2人を引き連れて三重巡礼に。
誰も目に掛けないような寂れた神社に出向いた訳よ。
《06.10.20》]]>
リハビリ日記:120
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2006-10-19T06:47:00+09:00
2010-03-13T10:06:59+09:00
2006-10-19T06:47:20+09:00
tomhana0903
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先週の金曜日の話である。
昼から銀行その他に行くと言ってM美とT美の2人が揃って出ていった。
1時間過ぎても帰ってこなかった。
「何やっとるんだ」と思っていたら、いつものように話ながら帰って来た。
この2人、帰って来たことが私に直ぐバレテしまう。
何故なら、窓の外から大声で話し合う2人の声が絶対に聞こえてくるから。
時には昔やったゲームをしながら帰って来たり、
他愛もない話で盛り上がっていたりと何とも微笑ましい。
そんな2人が
「頓珍館の向いのプランターの中にある木を見てゴラン、不思議なものがあるから」
と、いいもの見つけたから、あんたにお裾分けしてやるから、
黙って行って来いと背中を押すようなことを言うではないか。
(ちなみに、頓珍館というのは事務所から300m離れた所にある中華料理屋)
結局、訳の判らない2人の話を聞きながら、
「最近、面白いこともないので、ここは一丁」と一応心に止めておこうよ思った。
次の日の朝、いつものように早朝巡礼に行こうと思って家を出たが、
駅まで着くうちに何故か一汗充分かいていた。
どうも、いつもの朝よりこの日は暖かかったのかも知れない。
しかし、こんな状態でいつものように巡礼に行ったら、
とんでもない結果が目に見えていると思って、急遽巡礼は取り止めた。
(汗びっしょりの姿を見た人は決まって「何やってるの」という顔をする)
その時、フト昨日の話を思い出した。
「ヤツラ昨日、変なこと言っとったな」と。
コンビニに寄ってその日喰う昼飯を買った帰りに、
ちょっと遠廻りだが言われた通り頓珍館の方に行くことにした。
頓珍館の前に行くと例のものは直ぐに判った。
隠された様子もなく堂々と、今話題の変な木があった。
近づいて見ると、言っていた通り不思議な世界が展開されていた。
初め、誰かのイタズラかな、と思った。
園芸用の西洋杉、流通も普通に行なわれているようで珍しくもナントもない杉の木。
この木だったら10人中10人が一度は見たはず。
そんな木(高さ1.2m)の枝という枝に不思議なものが付いていた。
それも推し量ったように等間隔で、ゴムで作ったような物体が。
植物の実にも見えるし、何かのサナギのようでもあり、ゴムで作ったニセモノのようであり、
枝にマトワリ付く感じでそのものが無造作にくっ付いていた。
見回しても、じっと見てても一向に何かが判らない。
証拠写真だけはたくさん撮ったが、思考は途中から止まっていた。
「考えても答はみつからない」
こういう時は妙に分別のある大人になっている。
PS.これはいったい何だろう。
何かを知っている人、植物のことならオマカセという人、
助けると思って思い悩んでいる私に救いの手を。写真:まっ先に目に付いたトコロから撮った。写真:拡大写真がこれ。写真:超アップ写真がコレ、見るからに不思議なものだった。写真:下の方の枝にもちゃんと付いていた。写真:最後に全体像の判るもの。飾り物のように付いていた。
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名古屋巡礼記:81
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2006-10-18T06:51:00+09:00
2010-03-13T10:10:15+09:00
2006-10-18T06:51:35+09:00
tomhana0903
未分類
[表参道火除橋]
火事を避けるために造った堀川に架かった橋。
伊勢神宮は普通の神社とは異なり内宮と外宮の2つに別れているので、
参拝の順路としてはまず外宮からというのが習わしのようだ。
伊勢市駅から歩いて7分ぐらいのところにある外宮へ。
要は神々に食物を司る豊受大御神に参拝したのち、
内宮ヘ行って太陽神である天照大御神に参拝するという順番になる。
宮域にある別宮にも参拝する場合は別宮に参拝した後に正宮に参拝する。
コレまた、習わし。宮域には別宮以外にも摂社末社がたくさんあるので、
そちらも含めて参拝すると御利益テキメンだろう。
参拝する時は二拝(2度お辞儀をする)次に二拍手(手を2度打つ)
最後に一拝(1度お辞儀をする)というのが神道の作法になっている。[手水舎]
火除橋を渡るとすぐ左にあり、ここでまず浄める。
JR伊勢市駅から駅前の商店街を抜けると、高倉山の麓に広がる森が外宮だ。
外宮の祭神、豊受大神は天照大神の食事を司る御饌都神(みけつかみ)で、
約2000年前の内宮鎮座の500年後、丹波の国からここに迎えられ、
以来、産業全般の守り神として祟敬されてきた。[清盛楠]
かの平清盛が参拝の折、冠に触った枝を切らせたという曰く付きの古木。
外宮の御饌殿(みけでん)では毎日欠かさずおこなわれている祀りがある。
日別朝夕大御饌祭といって、朝と夕の1日2回神様に食事を差し上げるもの。
当り前のように思うが、これが外宮の鎮座以来1500年間、
戦乱の世や嵐の日にも続けられてきたのだ。[神楽殿]
一の鳥居から正宮への参道の途中にある入母屋造りの建物。
祀りに奉仕する神職は前日から潔斎をおこない、
早朝、火を起こすことから始めるという。
木と木を擦りあわせて発火させるという弥生時代と道具を使っての作業だ。
そして井戸から水を汲み、食事を調える。
神様の食事は基本的に御飯と塩と水。それに季節の野菜や魚、海藻などで、
食材は神宮専用の田畑で収穫されたもの主に使うという。
厳粛な雰囲気の中、祀りは続いてゆく。[新御敷地]
正宮の隣にある白石敷かれただけの遷宮用地。
豊受大神宮正宮
祭神:豊受大神(とようけのおおみかみ)
鎮座:三重県伊勢市豊川町(近鉄/JR伊勢市駅から500m)
4重の御垣に囲まれて、豊受大神を祀る御正殿か五丈殿の横に建っている。
東北の隅に日別朝夕大御饌祭がおこなわれている御饌殿がある。
詳細:皇大神宮(内宮)ご鎮座より遅れること481年、豊受大神宮(外宮)は内宮に祀られている天照大神が召し上がる食事の守護神・豊受大神を祀っている。この神は別名御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、丹波の国(今の京都府下、天橋立付近)から迎えたと言われている。唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)と呼ばれている建築様式で建てた正宮はほぼ内宮の正宮と規模や造りは同じであるが、鰹木が内宮より1本少なく、千木が外削(先端が垂直に切られている)になってる。
※別宮は正宮との間柄を示す称号であり、あたかも本家に対する分家の意味で「わけみや」として重んじられているという。豊受大神宮(外宮)には宮域内に3ヵ所、宮域外に1ヵ所の別宮がある。
豊受大神宮別宮…多賀宮(たかのみや)
祭神:豊受大御神荒御魂(とようけおおみかみのあらみたま)
鎮座:三重県伊勢市豊川町(近鉄/JR伊勢市駅から500m)
正宮前の御池にかけられている亀石を渡ると右手に土宮、左手に風宮が見えてくる。
正面の98段の石階を登ると檜尾山に南面して外宮の第一別宮である多賀宮がある。
詳細:ここは和御魂を祀る本宮とは対になっているお宮で豊受大神の荒御魂が祀られているという。神や人間の霊魂は一霊四魂、つまりひとつの霊と四つの魂から成るとされ、一霊は直霊(ナオビ)で、四魂は荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・奇魂(くしみみたま)・幸魂(さきみたま)とされ、御魂のおだやかな姿を和魂とするのに対して顕著なご神威を表わしている御魂の働きを荒魂という。外宮が創立された際、ここ多賀宮も同時に奉斎されたと伝えられている。神宮14別宮のうちで内宮の別宮である荒祭宮同様、特に重きが置かれ、20年1度の大祭である式年遷宮でもこの2宮だけは正宮に引き続き真っ先に遷宮をされる。また、事を起こそうという時はここへお参りに来る、という信仰がある。
豊受大神宮別宮…土宮(つちのみや)
祭神:大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)
鎮座:三重県伊勢市豊川町(近鉄/JR伊勢市駅から500m)
豊受大神宮の大前の御池の真向かいに広がる深い杉木立の中、
大土乃御祖神を祀る土宮がある。
詳細:伊勢市の西を流れる宮川はかつては市街地に流れ込んでいたのでその治水は神宮にとっても非常に重要であった。そのため昔から外宮のある山田の原の守護神としの大土乃御祖神を祀ってきた。余談だが、他の別宮が全て南に面しているのに対して土宮だけが東面を向いている。これについては南面に建てれば正宮を後にするとか、地勢の便宜上の理由によるとか、古来種々論じられてきたが定かではないようだ。但し、理由の如何にかかわらず東向きに鎮座するということは外宮ご鎮座以前に遡った古態を残したものと言えるだろう。
豊受大神宮別宮…月夜見宮(つきよみのみや)
祭神:月夜見尊(つきよみのみこと)・月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)
鎮座:三重県伊勢市宮後1-1006(近鉄/JR伊勢市駅から500m)
外宮の北御門口から神路通りを北に約300m行くと
天照大神の弟神である月夜見尊を祀った月夜見宮がある。
詳細:月夜見尊は皇大神宮別宮の月讀宮に祀られている月讀尊と同じで、外宮の別宮では月夜見尊となる。地元では月讀=げつどくさん、月夜見=つきよみさんと呼び分けている。太陽神である天照大神が見えるもの・昼を司るのにたいして、見えないもの・夜を司る。陰陽で言えば天照大神が陽であるのに対して月夜見尊は陰であり、陰陽の両方があって初めてこの世界が成り立つという構造を持っている。
豊受大神宮別宮…風宮(かぜのみや)
祭神:級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しなとべのみこと)
鎮座:三重県伊勢市豊川町(近鉄/JR伊勢市駅から500m)
多賀宮へ上る石階のすぐ左脇に土宮とはちょうど反対側に当たる
東側のところに風宮がある。
詳細:元来風宮は多賀宮へと続く参道沿いの杉の木のふもとにあった小さな祠で、風雨の災害なく稲を中心とする農作物が順調に成育するようにと祈りが捧げられる社であった。1281年の元冦に際して蒙古の敵軍を全滅に至らしめた神風の功により、別宮に昇格したと言われている。級長津彦命、級長戸辺命は祓戸(はらえど)の神様とされ、神社を参拝する時に祓う(浄化する)ことで、心身共に清々しい状態で参拝することができるという意味で、まず最初に参拝する別宮とも言われている。
次回はいよいよ本丸に当たる内宮のことを詳しく取り上げていこうと思う。
それまで、暫し待たれよ!
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名古屋巡礼記:80
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2006-10-17T06:57:00+09:00
2010-03-13T10:12:38+09:00
2006-10-17T06:57:02+09:00
tomhana0903
未分類
写真:トタンの赤錆びた感じがこの街の感じなんだな。
大秋八幡社から200mも離れていないトコロに「松原八幡社」がある。
意外に大きな境内で、木々も太くて年季が入っている感じ。
私が訪れた時は年寄り連中が集まって、お祭か何かの準備をしているようだった。
と言うことは、年寄り連中の好奇な眼差しが私の身体に否応なく突き刺さって、
落ち着いての巡礼、そして現地調査もできない感じ。
しかしそこは手慣れた私のこと、顔はニコニコ気持ちは無視することで
難なく乗り切ることができた。
思った以上に広い境内、御神木も所々に残っているようで、
以外と落ち着ける(年寄り連中がいなければ)感じ。
寄り添うばかりの弊社もしっかりと一人立ちしている感じで、
小さいながらも自分専用の狛犬もいて、しかも定期的に清掃も行なわれているようで、
住民達の暖かい心持ちが読み取れて何だか好感が持てた。
ホント言うと、年寄り連中の話し声が五月蝿くて参拝どころではなかったのだが、
一期一会を基本とする私としては返す返すも残念であった。写真:変な注意書きが胸元にあり、それが入る写真に我慢ならなかった。
とにかく「ここからは脱出しなくては」という気持ちがフツフツと沸き上がってきた。
そう思うのが早いか全てのものを振り切って、次なる目標に向かって歩き出していた。
次の目標はここから約300m離れたトコロにある「覚円寺」という寺院。
地図的に見ると、ここらの名士の寺と見たが果たしてどうであろうか。
則武本通沿いに南下して目標に向かったが、たまたま信号の都合がよかったので、
先に道の向こう側にある「則武八幡社」に行くことにした。
しかしこの神社、地図には神社マークも社名も載っていない。
信号名に隠れてしまって神社のあることすら判らなくなってしまった幻の神社だ。
かと言って、地図に載せなくてもいいようなチンケな神社ではない。
しかし、明治時代から少なくともあった由緒ある神社なのだ。
則武本通沿いに目を凝らして行けば誰でも見つけられるはず。写真:こじんまりとはしているが、神社の要件はちゃんとみんな揃っている。
しかし、そんなに広い境内ではない。鬱蒼と茂る鎮守の森もない。
あくまでこじんまりとして、地元の人だけに細々と対応してきたという感じなのだ。
第一の鳥居をくぐって、お決まりの目隠し用の衝立てのような建造物があって、
その向こうに最近こしらえたばかりの場違い的な賽銭箱を前に置いた堂々とした拝殿と
あくまで卆なく主張もせずにただあるという感じの弊社が佇んでいた。
ここにきて空は雲ひとつない秋晴れでまさしく巡礼日和とあいなった。
イツになく念入りに「願いよ届け!」と言わんばかりに心の底からお参りをした。
サービスに弊社まで賽銭をくれてやったが、結果はどうであろうか。
首筋に汗はかいていたが、久しぶりに清々しい気分になった。
拝殿と衝立ての間に顔が真っ黒な一見古そうな狛犬がいた。
台座を調べてみると、大正4年という文字が辛うじて読み取れた。
拝殿と本殿の間にも別の狛犬がいたが、近付けなかったので詳しいことは判らずじまい。
帰りがけに定という文字で始まる石造りの注意書き版が目に入った。
そこにはこんなことが書かれていた。
「一つ車馬で乗入れべからず。一つ魚鳥を捕るべからず。一つ竹木を切るべからず」と。
思わず「何だこれは」と目が点になってしまった。写真:大正年代に造られた石碑?なんだな。
則武八幡社への巡礼も無事終了して、
次は最初の予定から入っていた覚円寺に向かうことにした。
壁越しに見える本堂は思った以上に大きくて期待が持てた。
山門までは大きな段差があって、全長15m位の手摺付きの坂が山門の縁まで続いている。
しかし、山門をくぐって中に入ると、予想に反して思わず愕然としてしまった。
というのも、本堂は大きくて立派でいいんだが、境内の中は燦々と陽の降り注ぐ、
言ってみれば眩しいほどの明るい世界で、まさしく中学校の校庭然としていた。
侘び寂びといった古刹にツキモノの風情とか赴きというものが全然感じられないのだ。
何でもいいといいながらも、こんなお寺ではどうしようもない。
更に寺にツキモノのアイテムもほとんどないというテイタラク。
本堂の写真を辛うじて撮って、スゴスゴと退散するしかなかった。写真:大きくて立派な寺だとは思ったが、ワタシ的には不可なんだんな。
次なる目的地はここから約700m西に行ったトコロにある
「光明寺」と「西福寺」の2つの寺。
そんなに期待はしてないが、光明寺の方は何でもバリアフリーの寺として、
地元の年寄り達からも一目置かれた存在だとネットにあったので、
まずは光明寺の方をメインで訪れることにした。
ここに来ての700mという距離は半端な距離ではない。
奢ることなく、甘えることなく、黙々と脇目も振らず歩いて行く。
目的地の付近に近づいて目に入ってきたのは寺と言うには摩訶不思議な外観の建物。
2階に釣り鐘が見え、1階にある和風な門でカロウジテ寺とは判ったものの、
どう考えても寺とは似ても似つかないオシャレなシロモノ。
驚き、桃の木、サンショの木という感じなのだ。
ここまではちょっと変な奴とは思ったが、全体否定をするつもりはなかった。
しかし、最新のバリアフリーか何かは知らないが、
開かずの門では検証することも、ましてや欠点を指摘しようにも、どうしようもないだろうが。
私からすると、こういう態度が一番怒れてくる。
寺の未来像か何だか知らないが、寺ウンヌン言う前に日常のお務めである
「地元の人達との触れあいはどうなっているんだ」と声を荒げたくなってしまった。
何でもないことからコツコツとやってかないと、いい加減な寺で終わってしまうぞ。
偏屈な成り金親爺がやるんだったら納得もするが、レッキとした寺がこんなことすると
「月に代わってお仕置きよ!」と断固制裁を加えちゃうぞ!
と、年甲斐もなく熱くなっていた。写真:いいい、変なインネンを、ゴロ捲いてんじゃないのよ。
気分を変えて、隣の西福寺に回ることにした。
しかし、過度な期待はこのお寺には失礼かなと、思うようなそんな寺だった。
門をくぐると直ぐその前が本堂、左側にちょっとした仏教的ディスプレイが飾ってあって、
右側の大半が住職の個人的活動の場、すなわち家族の集う場所。
こんな感じのトコロでは大きな期待は初めから望めそうもないし、
訪れた足跡さえあれば「まぁいいや」という感じだった。
文化遺産的なカケラもない本堂、ましてや賽銭箱も置いていない。
戸を少し開けて賽銭を入れようとしたら鍵がかかっていて開かないときてる。
「何だ」と思って振り返ると、本堂の脇の片隅に変な石像があるのに気が付いた。
第一印象が「これって狛犬?」だった。
まずこの犬、典型的な狛犬とは似ても似つかぬ容姿をしてた。
対でいるのが普通の狛犬なのに、ここのは1匹ポツンといた。
「これだから、巡礼は止められない」と言うんだ。
こんな寺にこんな逸品があるなんて、誰が信じてくれるのか。
行った私ひとりだけがこの幸せ一杯の気持ちを身体一杯に享受できたんだな。写真:どう見ても虎のような気もするが、御祝儀ということで狛犬になってしまった。
続きの話は次回でということで。
[現場の確認]
松原八幡社
則武八幡社
覚円寺
光明寺と西福寺]]>
日々の雑記帳:15
http://tomhana092.exblog.jp/4736411/
2006-10-16T06:49:00+09:00
2006-10-16T06:51:38+09:00
2006-10-16T06:49:11+09:00
tomhana0903
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まさに世界の酒と呼ぶのにふさわしい酒、
スコッチ・ウィスキーは現在、世界の200ヵ国以上に輸出されているという。
生産量も700mlのボトルに換算して年間9億8000万本も出荷しているという。
ということは全世界で1秒ごとに31本も売れているということになる。
スコッチの消費地としてはイギリスを除くヨーロッパが全生産量の4割で、
これに比べるとアメリカが13%、日本が4%というのは思いのほか少ない。
それにはちゃんと理由があって自国で国産ウィスキーを生産し消費しているからだ。
イギリス以外でウィスキーなるものを造っている国はというと、
アメリカ、カナダ、日本、タイ、ベトナムなどが挙げられる。
しかし、生産量的にはアメリカ、カナダ、日本が圧倒的に多く、これに本国である
スコットランドとアイルランドを加えて5大ウィスキー産地と言うらしい。
私の場合は何と言ってもアイリッシュが一番好きだ。
スコッチのような重くヘビーで喉の奥が焼きついておちおち飲めないという風でもなく、
バーボンのように飲みやすいけど甘ったるいという品の悪さのようなものがなく、
自分の気性にピッタリの酒、それがアイリッシュウィスキーだ。
キリリと軽くて爽快な口当たり、まるで私のようなウィスキーなのだ。
(国産ウィスキーとカナディアンはほとんど飲んだことがないし、
わずかに残っている印象ではまた飲みたいと思ったことないので論評はできない)
余談だが、スコッチだからこそ水割りではなく、せいぜいオンザロックで飲みたい。
あの喉を通る時の猛烈な刺激が「酒を飲んでいるんだ」という大人の感覚なのだ。
《06.10.12》
駅裏
先週の土曜日、何年ぶりかで駅裏に行ってきた。
大の大人が「そこは何処ですか?」などと素頓狂なことを言ってはいけない。
駅裏と言えば誰が何と言おうと、名古屋駅の裏側に決まっている。
中学生の頃、駅裏と言うと何かガチャガチャしていて、それでいてイカガワしくて、
何か危険な匂いのするトコロであり、母親に「ちょっと駅裏に行ってくる」と言えば
即座に却下される、そんな親と子の断絶を誘い出すトコロだった。
しかし、どんなに反対されようとも「いつか、きっと行ってやる」と
秘かにココロ誓ったトコロでもあったのだ。
結局は期間にして半年、都合5〜6回ほど足を踏み入れたはずだ。
しかし、先週40年ぶりに行って見て判ったことは
駅裏は当時の輝けるパワーとゾクゾクするような煌めきはとうの昔に消滅して、
潰れる寸前の老人のアガキのような寂しいトコロだった。
紅顔の美少年だった私がただの杖突くジジイになっているという現実からして、
「時の経つのは何とも惨いことをする」というのが実感。
今では駅裏という言葉だけが私の心の中でカロウジテ輝いている。
《06.10.13》
五島列島
長崎県から西に行った海の中に五島列島という島々がある。
五島と言っても実際は大小140余りの島々が集まって、
五島市というレッキとした市もあるし、飛行場だって3カ所もある島々なのだ。
そして、ここには50を越す教会があり、約8万という人口の15%が信者だという。
五島列島でのカソリックの布教活動は古く、1566年から始まったといわれている。
旧五輪教会は木造民家のような外観だが内部はゴシック様式の洋風。
堂々たるレンガ造りの青砂ヶ浦教会ともども国の重要文化財に指定されている。
また、明治元年に最後の切支丹大弾圧がこの島を舞台に起ったという。
約200人の切支丹が牢屋の窄教会に造られたわずか6坪の牢屋に
8カ月間も閉じ込めら、結果42人の島民が殉教したという。
観光旅行で常夏のハワイや哀愁のヨーロッパに行くのもいいが、
大海に浮かぶ信仰の島々五島列島に死ぬ前に一度は訪れてみたいと思っている。
観光の問合せはまずは五島市商工観光課まで http://city.goto.nagasaki.jp/
一応断わっておくが、私は五島列島とは何の縁もユカリもない男だ。
《06.10.14》
逐次投入
原則無視の最大の悲劇がガダルカナル作戦であった。
海軍はミッドウェイ海戦で失った空母部隊に代わって基地航空部隊を進出させて、
アメリカとオーストラリア両軍を遮断する作戦に切り替えた。
その結果、日本の最前線基地であるラバウルから無謀にも約1100kmも離れた
無名のガダルカナル島に陸軍の合意もなく航空基地建設部隊を派遣してしまった。
ガ島の飛行場完成とほぼ同時にアメリカ海兵1個師団が無血上陸し飛行場を占領した。
陸軍は海軍の応援のもと、最悪のシナリオである逐次投入という愚を犯した。
最初は一木支隊、結果は全滅。次は川口少将指揮の歩兵第124連隊、結果は失敗。
次に 精鋭の第2師団を投入、しかし総攻撃が失敗し全軍が取り残された。
次に第38師団を投入したものの、兵力の多くは輸送中に海没し、
更に上陸部隊への補給も間々ならず、ガ島はまさしく餓島と化した。
理由は単純、航続距離の長いゼロ戦でもガ島上空で15分しか交戦時間を持てなかった。
結果、陸軍と同様に海軍も航空隊の精鋭と補助艦の多くを失なった。
作戦開始から1年半後、ガ島を放棄(言葉の上では転戦)した時、
戦死・餓死者合計25000人、生還者わずかに11000人という惨状であった。
国連決議もようやく文言意味不明な決議内容で決まった時だといのに、
イサギいいと言うのか無知なのか、それとも単なる選挙対策用なのか、
早々と北朝鮮への日本独自の報復行動を決めてしまった安倍クン。
昔、自分勝手に思い込んでいた日本軍のことを何故か思い出した。
《06.10.16》
啖呵
いつも通っている道のそれこそ見慣れた景色が時々、
思もってもみないような感動ものの景色に変わっていることがある。
その時は必ず「ラッキー」と心の中で叫んでいる。
この病気になってから自然と日々の移り変わりに一喜一憂している自分に気づく。
西行の愛した日本、芭蕉の詠んだ日本、そういう日本人なら当り前にもっているものが、
自分にもちゃんと受け継がれているんだなと自覚するのは正直うれしい。
何もこんな勿体ぶったことを言わなくても、写真を見れば判ること。
「こんな景色を見たからと言って何かいいことでもあるのか」と啖呵を切ってるあなた。
日々の喧噪の中で自分を見失ってはいかんよ。
写真:こういう景色を見てココロ動かさない人は相当重症だ。
《06.10.16》
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心の曼陀羅:39
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2006-10-14T07:43:00+09:00
2010-03-13T10:14:55+09:00
2006-10-14T07:43:59+09:00
tomhana0903
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それから2〜3回、義兄と手紙のやり取りがあってようやく、
中岡慎太郎は澄江の身に起きた出来事が朧げながら判った気がした。
柏木村では村で働く長男を除いて、
次男三男のような家を継がない男達は遠く高知の町まで出て、
ある者は代々世話になってきた武家屋敷で下男として働くか、
または何処ぞの商家で下働きとして住み込むぐらいしか働く手立てはなかった。
その点、娘は男に比べて働き口がまだある方だった。
しかしあると言っても、
何処ぞの商家や屋敷で働く女中や下女のような堅気の仕事はほんのわずかで、
あとは女として浮世に落ちていけばいくほど増えていくような、そんな仕事ばかりだったが。
慎太郎は知らなかったが、澄江は高知の町へ奉公に行くことになったという。
それも、今の土佐藩で飛ぶ鳥を落とすと噂されている後藤象二郎の屋敷へ。
何でも今年の夏が過ぎた頃、後藤家では突然の屋敷替えとなり、
土佐藩の実権を握る前藩主からの直々の思し召しにより、
以前住んでいた屋敷の倍ほどの大きさの立派な屋敷を賜り、
養う家臣も家禄に応じて急に増やさなければならなくなったという。
それに呼応するように、女中をはじめとして屋敷で働く人間も増やそうとしていた。
●
そんな折、澄江に後藤家での奉公の口が掛かった。
そして、8月に入ると口聞きをしてくれた者と父米蔵との間で
奉公に上がる日が慌ただしく決まろうとしていた。
澄江は8月15日から後藤家の下女のひとりとして奉公することが決まった。
初めは慣れない仕事で戸惑ったりもしたが、
10月に入る頃には1人前の下女として炊事や洗濯、
薪割りから風呂の世話までありとあらゆることをこなすようになり、
後藤家の裏のことを取り仕切る老女の松野からも、
そして何より仕事仲間からも頼れる存在になっていた。
澄江は武家の屋敷に奉公するようになって始めて、
庄屋の息子だった慎太郎が世の為になることをしようと武士である郷士となり、
ついには脱藩までしてその夢を追い続けたいと願った気持ちと、
そんな彼の置かれた現状というものがわずかばかりではあったが判るような気がした。
ある時は「慎太郎さががんばっているんだ。オラもこれしきのこと…」と思ったり、
「2年もここで辛抱したら、きっと慎太郎さが迎えに来てくれる」と思う澄江であった。そんなある日の昼下がり、奥の昼食の準備も済ませ下男の留吉と薪の準備をしていると、
「今、殿様が城から戻ってきたと思ったら何でも風呂へ入りたいと仰っておいでだ。
澄江、お前には急がせて悪いが、早う風呂の仕度をいたせ」
と、澄江は松野から突然言い付けられた。
●
いつものように風呂の掃除をし、水を張って、ついでに薪に火を付け、
風呂番のようなことをしていると突然風呂の中から声が掛かった。
「誰か、おるのか」と、湯舟の中から男の人のゆっくりとした声が聞こえてきた。
「はい」と、答えたものの澄江はこの屋敷に来て一度も殿様を見たことがなかった。
粗相のないように今一度「はい、下女の澄江がおります」と、答えるのがやっとだった。
「澄江? 最近屋敷に来た者だな。ええい、お前でよいから背中を流せ」
と、今度はハッキリとした声でそう言った。
「でも、おら馴れてないので、ご勘弁ください」と澄江が言うと、
遮るように「ええい、何をしておる、早うせんか」と、最後通告のように言い渡された。
しばらくして澄江は湯殿の入口に佇んで、最後の決心を自分に言い聞かせていた。
打って変わって落ち着いた声で「入れ」と、殿のお声が掛かった。
その後の出来事は皆さんがだいたい想像した通りに展開したようだが、
細かい内容を記すことは本紙の主旨に反するので割愛させてもらった。
要はその後しばらくして澄江に殿のお声が再び掛かったのである。
そして、秋も終わろうとする季節になって澄江は自分の身体の変化に気が付いた。
身籠ったと判った澄江はその時はじめて自分の身に何が起ったのか理解した。
相談するにも親身になってくれる者はこの屋敷の中にはいなかった。
迷った挙げ句、澄江は松野にそれとなく相談した。
松野は「何、殿のお子をな」と言うなりその場で考え込んでいたが、
しばらくしてから「このこと他言は無用ぞ、悪いようにせぬから」と優しく声を掛けた。
それから1ヵ月もしない内に突然澄江は暇を出された。
屋敷を去る最後の日に松野から「生まれてくる子をくれぐれも大事に」と
わずかばかりのキンスを持たされて澄江は国へと帰って行った。
最後まで殿にお目にかかることはなかった。
●
澄に江起った出来事はそれこそ慎太郎にとって晴天の霹靂だった。
澄江の気持ちを確かめるにも、澄江からは何の便りもなく、あるのは義兄からだけ。
義兄の柔軟取り混ぜた聞き方に澄江の重い口がようやく開いた。
それにより慎太郎は事のあらましを掴むことができた。
澄江がどう思おうと、嬲り者にされたことだけは間違いなかった。
それからの慎太郎はどうやって仇を討つか、そのことばかりが頭から離れなかった。
と同時に、当事者の象二郎は今、龍馬や私が突き進んでいる討幕の大事なパートナーであり、
また、事を成す上で一番大事な資金面では融通の効くパトロンでもあった。
心の何処かに大事にして置きたかった思いを踏みにじった男と
我々が起こそうとする討幕運動の大事なパートナー兼パトロンの男が奇しくも同じ男だとは。
そして、男は踏みにじった女がまさか慎太郎の関係のある女だとは知らずに、
屈託のない顔で「龍馬さん、これが済んだら何がしたい?」と突然聞いたり、
「俺は土佐へ戻って藩の後始末でもやっていようかな、やれることもないから。
慎太郎はどうする? もう決めたのか? お主ならさぞかし引く手あまたで羨ましいな。
これからはお主のこと、中岡先生と呼ばなくちゃ」とにこやかに接してきたりした。
慎太郎にしてみれば、裏のない顔を装っていながらホントは裏の塊みたいな男、象二郎。
そんな彼を時が経つのにつれ徐々に許せるように変わっていったかというと、
時が経つのにつれ増々許せない存在として見詰めていた慎太郎であった。
「所詮、上士の塊のような嫌な奴だ。百姓や我々郷士など何とも思ってない、そういう奴だ」
心に期すものがふつふつと沸き上がって来るのを、
どうすることもできない慎太郎であった。
●●
この日、最後のお願いに龍馬を訪れた慎太郎であった。
「龍馬さん、あなたも郷士上がりだから判るはずだ。
それに奴は我々の拠り所であった武市さんをはじめとする土佐勤王党を
いとも簡単に抹殺した張本人ではないか。
そして、今度は私の許嫁をたぶらかし、孕ませ、そしてボロ布のように捨てた。
そんな奴が土佐藩をかって気ままに動かしている。
それに聞くところによると、龍馬さん、あなたが提案した『船中八策』を
奴はあたかも自分と自分のブレーンが成し遂げたかのように進言して、
家老格に大抜擢されたというではありませぬか。
狡猾さにかけては奴の右に出る者はおりません。
このまま奴を生かしておけば、絶対に禍根を残すに違いありません。
そうは思いませんか、龍馬さん」
と段々哀願にも似た響きを帯びてきた。
怒りに震える慎太郎が次に打った手立てとは何か。
この話の続きは次回最終回に譲ることとしよう。ではまた!]]>
名古屋巡礼記:79
http://tomhana092.exblog.jp/4720415/
2006-10-13T06:44:00+09:00
2010-03-13T10:16:40+09:00
2006-10-13T06:44:15+09:00
tomhana0903
未分類
伊勢神宮で20年に一度おこなわれている遷宮。
「遷宮」を辞書で調べてみると、
神殿の造営・改修に際し、神座を移すこと。また、その祭儀とある。
と、いうことは伊勢神宮だけに限った言葉ではないことが判る。
普通の神社でも当然社殿が傷んでくると改修のために遷宮をやるらしい。
しかし、遷宮と言えば「式年遷宮」であり、伊勢神宮に結びついてくる。
伊勢神宮のように傷んでもそうでなくて
一定の期間ごとに必ずやるというのには恐れ入る。
今ある正宮(しょうぐうと言う)の隣に同じ広さの宮地が用意されていて、
そこに新しい社殿をそっくりそのまま同じものを建て直し、
神様にお引越しいただくらしい。
でも、何故20年に一度なのか? 更には何故引越さなければいけないのか?
この疑問にまずは答えてもらおう。
[ 伊勢御遷宮参詣群集之図 ]
何故、遷宮をやるのか?
A:一般的には社殿の損傷がひどかったり、災害を受けて建て替えると考えられますが、
伊勢神宮の場合は異なり、20年をひとつの区切りとして遷宮を定期的に行なっています。
遷宮そのものがお祭りであり、遷宮を行なうこと自体に意義があるのです。
その意義とは?
A:伊勢神宮で毎年10月におこなう神嘗祭は神嘗正月ともいい、
お祭りに使う器などを新しくし、その年の新米を神様に奉げる儀式です。
新米と共に人も国も常に若々しくありたいと願うお祭りです。
この神嘗祭の規模を大きくしたのが式年遷宮です。
神様に瑞々しい社殿へお入りいただき、更なる感謝の心を表わす
大神嘗祭ではないでしょうか。
何故、20年に一度なのですか?
A:式年とは定めの年回りのことです。20年という式年については社殿の耐久限度、
技術伝承などの諸説の中、米の貯蔵にちなむ説があります。
古代、国家経済や遷宮を支えたのは米という税。
米を蒸してから干した乾飯を20年保存するという法律があり、
この乾飯の最長貯蔵年限を20年の根拠とするものです。
今でも神嘗祭には全国から献納された稲束が正宮の玉垣に掛けられていますが、
これは懸税(かけちから)と呼ばれ、昔の納税の名残りです。
どこを新しくするのでしょうか?
A:内宮、外宮の御正殿と14の別宮が造営され、
五十鈴川に架かる宇治橋も架け替えられます。
けれども、古材を捨てることはせず、他の社殿に使うなどリサイクルする仕組みです。
また、殿内を飾る御装束・神宝714種1576点余りも作り替えられます。
御装束は布や装飾品など、神宝は太刀、鏡、琴などの調度品で、
いずれも当代一流の名匠が製作し、日本の伝統技術を継承しています。
遷宮で使用する御用材は?
A:造営のための檜は約1万本が必要です。
その材は全て御用材を伐採する御杣山から調達されます。
今は木曽の国有林が御杣山に定められています。
近年、神宮周辺の山で檜の植林を進めてきましたが、今回はその一部か使われます。
今年の御木曳行事も延べ10数万人の旧神領民が奉仕し、盛大におこなわれます。
旧神領民とは?
A:大化の改新で、全国の土地が公地となった時にも、
例外として神社に与えられた領地を「神領」といいます。
制度はなくなっても伊勢の人々は今でも神領民としても誇りを持ち、
遷宮の奉祝行事をおこなってきました。そうした関係者の皆様の協力で
第62回式年遷宮は動き始めたのです。
神宮庁広報課長の談
土地の人からは「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しく呼ばれ、
辞書などでは「伊勢神宮」と紹介されているようだが、
正式な名称は単に「神宮」というのが正解らしい。
本来、神宮という呼び名は伊勢の神宮のみを指していたようだが、
後年になって伊勢以外の地にも○○神宮という名前の神社ができたため、
他の神宮と区別するために「伊勢神宮」と呼ばれるようになったという。
この日本一由緒正しき神社である伊勢神宮は
伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座している皇大神宮(内宮)と
伊勢の山田の原に鎮座している豊受大神宮(外宮)の総称で、
古くは伊勢大神宮(いせのおおみかみのみや)とも言ったらしい。
そして伊勢神宮の主祀神は内宮に祀られている天照大神(あまてらすおおみかみ)で、
この神は女性の太陽神であり、かつ天皇家の始祖でもある。
外宮には豊受大神(とようけのおおみかみ)が祀られている。
豊受大神は天照大神の食物を司る神であると言われている。
内宮は皇大神宮(こうたいじんぐう)とも呼ばれ約2000年前の垂仁天皇26年に、
外宮は豊受大神宮(とようけたいじんぐう)とも呼ばれ、
約1500年前の雄略天皇22年の建立とされている。
内宮と外宮の両神社の正宮には別宮、摂社、末社、所管社が所属しており、
全部で125の宮社を数え、これらの宮社を含めたものが伊勢神宮ということになる。
これらの諸宮社は伊勢はもちろんのこと松阪、鳥羽の3市と
度会、多気、志摩の3郡にわたって鎮座している。
正宮(しょうぐう)
内宮、外宮とも宮域内に別宮や摂社などがあるので、
それらと区別するために本殿のことを正宮と呼ぶそうだ。
《内宮に1社、外宮に1社》
別宮(べつぐう)
正宮の「わけみや」の意味で、所属の宮社の中でも特に重んじられている。
《内宮に10社、外宮に4社》
摂社(せっしゃ)
「延喜神名式」(927年)いわゆる延喜式に所載されている社のこと。
《内宮に27社、外宮に16社》
末社(まっしゃ)
神名帳には載せられていないが、神宮の儀式のことをまとめて神祇官へ
提出した文献である「儀式帳(804年)」に載せられている社のこと。
《内宮に16社、外宮に8社》
所管社(しょかんしゃ)
正宮及び別宮が所管する社のこと。
《正宮所管社:内宮に30社、外宮に4社 別宮所管社:内宮に8社、外宮に0社》
伊勢神宮の建立された当時は現在のような隆盛ではなく、
昔は天照大御神より素盞嗚尊(すさのお)の方が人気があったようで、
伊勢神宮に人気が集まるようになってきたのは江戸時代、
移動の自由がなくなった代わりに伊勢参りだけは
自由に通行できるようになった頃からだという。
ここまできても何のことだか見えてこないあなた、
次回から詳しく伊勢神宮と式年遷宮のことを取り上げていこうと思う。
それまで、暫し待たれよ!]]>
名古屋巡礼記:78
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2006-10-12T06:47:00+09:00
2010-03-13T10:18:10+09:00
2006-10-12T06:47:35+09:00
tomhana0903
未分類
最近は天気と体調がいいというのが前提ではあるが、
土曜日の朝、事務所に行く前に巡礼するというのがお決まりのようになっている。
特に、東山線で中村区界隈に行こうとすると、この方法がグッドなんだな。
何故なら、最寄り駅である「一社」から乗り換えなしに中村区界隈に行けるから。
先週の土曜日もその調子で朝7時過ぎには「本陣」駅に着いていた。
本陣と言うと、江戸時代の宿場町にあった大名や高貴なお方の宿泊する宿というのが
まっ先に思い浮かべると思うが、ここはそんなことには何にも関係ないトコロ。
名古屋駅までは乗客で込んでいた地下鉄も、名古屋駅で大半は降り、
残っていたのは駅裏に向かう私のような変なヤツか、
駅裏に用事があるので仕方なく乗っているヤツか、そんなトコロだ。
写真:大秋八幡社の全景はこんな感じ。
当然、この駅に降りたのは生まれて初めて。
駅の造りも変わっていて、そのことが何故次の言葉に続くのか判らないけれど、
とにかく「駅裏に着いたんだ」という思いを新たにした。
地上に出る地下道が3つしかない質素というか簡素な駅から
一番近い今日の最初の目的地である「大秋八幡社」へと向かった。
しかし、地上に出たら「こんなところに駅があったの?」という感じのトコロ。
JRの発達していない名古屋の場合、地下鉄と言えば名古屋の大動脈のはずだ。
と言うことは地下鉄の駅は当然、幹線道路とか、主要道路の交差したトコロにあるはずだと
思っていたのに、ここはまんまと裏切られるトコロだった。
ゴクゴク普通の道の交差点の近くに、かと言って何かの目印になるような公共施設もなく、
見るからに拍子抜けするようなローカルな道沿いに地元の人にしか判らないように潜んでいた。
「こんなトコロに駅があってはいけない」と現状を見て私は思った。
写真:「本陣」駅はこんな感じ。初めて見る造りをしていた。
そうは言っても駅に着いたんだから、地下道を登って地上に出たからしょうがない。
何ごともなかった顔をして私は歩き出していた。
駅の直ぐ近くに名古屋市立本陣小学校という何処にでもあるような学校があった。
このひとつを見ても駅のある辺りがどういう土地柄か判ろうと言うものだ。
しかし、よく見るとこの小学校、とうの昔に廃校になっていた。
何処かの山奥のことなら何となく判る気もするが、
ここは名古屋、発展途上の街なのにこんなことが現実にあるなんて、ショック。
(我ながら少々、くどかったかな。あくまで地下鉄の駅に問題があるだけで、
ここに住んでいる住民にイチャモン付けている訳ではないのでアシカラズ)
写真:私の持っている地図には本陣小学校とあるが、今は廃校になっている。
旧道のような道をトボトボと歩いていくと、後ろから誰かが来るなと緊張が走った。
振り返ると、電動式の車椅子に乗った野球帽を被ったジイサンが
道の真ん中を何ごともない感じでやって来たと思ったら私を追い越して行ってしまった。
「こういうトコロなのね」というのが、偽らざる私の第一印象。
そうこうする内に地図にも載っていない曹洞宗の「慈済寺」の門前が現れた。
巡礼する場合、本堂の感じも大切な要件ではあるが門前にお堂があるとまずはほっとする。
「覗いてやろうかな」という前向きな気持ちが起きてくるから不思議だ。
そうは言ってもこのお寺、狭い敷地に無理矢理建てたようなお寺。
寺に必要な境内の緑とか、落ち着くとか、悠久の時とか、静寂とか、
普通なら本堂の入口の階段にどっかと腰を下ろして、暫し瞑想に耽るところだが、
ここはそういうものには無縁なように、とにかくスペースがなさ過ぎだった。退散!
写真:慈済寺の門前にあったお堂、早朝にもかかわらずロウソクの火が灯っていた。
しかたなくお参りを済まし境内を一応うかがって、撮るものを撮って振返ったら、
道の反対側の方に紅白の神社のノボリソウロウが目に飛び込んで来た。
まずはお目当ての「大秋八幡社」だと思った。
そして神社の向こうには最近建ったばかりのトヨタ何とかビルがそびえ建っていて、
その右手にはツインタワーがこれまた「これが目に入らぬか」という感じでおっ建っていた。
しかしこの感じ、今のここいらの状況を象徴した風景なのだ。
この神社、思いのほか狭い境内で、しかも危険予知の劣った現代の子供達のために
神社にツキモノの灯籠をこれでもかという感じで倒落防止の杭を立てて、
風情も何もあったもんでない感じで残されていた。
名古屋市の郷土史家によると、この神社は昔、城跡だったトコロに建てた神社で、
それも、こんなトコロが今川方の城であったという。
しかし、今はそういった戦国特有のドラマを感じさせる面影は全然感じさせてくれなかった。
写真:拝殿横にいた狛犬、チンのようなかっK時の狛犬だった。
お参りを済ませて、現地調査と言っても小さな境内だからすぐ済んでしまうのだが、
拝殿前にいた狛犬はズングリムックリのチンのようで少しばかり珍しい感じ。
弊社である「大秋龍神社」にあった重軽石はそのものズバリ蛇の姿をしており、
御丁寧にも左右のケースに1体づつしまわれていた。
それとは別に拝殿の横には「力石」という名の大石が置かれていた。
多分昔は村の若者達の力比べがこの境内の中でおこなわれていたのだろうか。
よく見ると拝殿の横に先代の狛犬が隠れていたが、別段どうというものでもなかった。
◆大秋八幡社:1522年、那古屋城まで進出した今川義元の親である氏親は
一族の今川氏豊をここの城主に据えた。
その後、氏親も勝幡城主で清洲三奉行のひとりで織田信長の父である信秀に追放され、
氏豊すなわち大秋十郎左衛門のその後の記録はない。
写真:拝殿の横にあった力石はどう見てもホッタラカシだった。
しかし、どうでもいいけどここら辺はとにかく八幡神社が多い土地柄だ。
大秋八幡社から200mも離れていないトコロに「松原八幡社」があるし、
ついでに言うと、もうひとつ「則武八幡社」というのも近くにある。
まぁ、ひとつの町にひとつの八幡社があるという感じなのだ。
始まりはこれくらいにして、続きの話は次回でということで。
写真:次回の予告「松原八幡社」はこんな感じ。
[現場の確認]
地下鉄「本陣」駅
旧本陣小学校
慈済寺
大秋八幡社
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